お風呂は我々にとって伝統的な生活習慣であり民俗文化です。その歴史は古く、世界各地で多くの遺構が見られます。近年話題になったローマの大衆浴場は有名ですよね。もちろん中国も例外ではありません。
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春秋戦国時代から既にお風呂もありハイテク
『水経注』という漢~晋代あたりに書かれた地理の本には「皇后の浴室」と伝わる山中の石室の存在が記録されていますし、実際に戦国時代の秦の王様の風呂跡も発見されています。
しかもその構造の原理は現代とほぼ変わらず、浴槽は四角い木製で、栓を抜けば地中に通した陶製のパイプを伝って外に排水される仕組みだったようです。更に浴室内は暖炉つき。ハイテクです。とはいえ今日ほど自由に湯水を調達できない時代であれば、入浴の習慣も現代とは少し異なります。
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古代中国の入浴の習慣について
中国や日本では、お湯や水で身を清めることを歴史的に「沐浴」と言いました。「沐」は頭から湯水を浴びること(特に洗髪)で、「浴」は湯水の中に浸かることです。今風に言えばシャワーとお風呂の違いでしょうか。
礼に厳しい周時代の沐浴の仕方
何事にも礼に厳しい周の時代、沐浴の仕方にも規範がありました。古代のマナーブック『礼記』では、5日に一度風呂を沸かし、3日に一度頭を洗い、その間、顔の汚れは温めた米のとぎ汁で洗い、足の垢はお湯で洗い、更に手は一日に5回洗うよう指南しています。
垢すりタオルも2種類存在していた
また入浴については、例えば垢すりタオルは葛製で二種類あり、君主は絺(きめの細かい布)、臣下は綌(きめの荒い布)を使いました。沐(シャワー)の場合は綌の一種類です。そして浴槽から出るとまずアブラガヤという草で編んだ蓆(マット)を踏み、一度お湯で洗い流した後、今度はガマで編んだ蓆を踏みました。この一連の作業は足の垢を擦り落とすためとされます。
最後に浴衣(バスローブ)を纏い、身体が乾いたら靴を履いて、やれやれ湯上りの一杯となります。これらの習慣は漢代や三国時代でもそう変わらなかったと考えられています。
周の時代にシャンプーと石鹸はあったの?
シャンプーや石けんの代わりとなったのは穀物のとぎ汁です。米はもちろん、洗髪にはヒエ、洗顔にはアワのとぎ汁といった風にも使い分けられたりしました。日本でもとぎ汁はメジャーな洗浄料でしたが、中国ではなんと周の頃からすでに利用されていたようです。とぎ汁は垢が落ちやすく肌にもよく、現代でもその効能が評価され美容に活用されています。
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