秦と聴くと、秦の始皇帝、最近ではキングダムなどの漫画の影響もあり、好戦的な最強国というイメージを持つかと思います。しかし、元々の秦は、中国の西の外れに位置した文化の遅れた国でした。
実は秦は魅力もない田舎の国だった
人材を集めようにも、身分が高く、才能がある人々は田舎の秦などには見向きもせず、斉や魏や趙、韓のような中国の中央にある国ばかりに集まっていったのです。そこで秦は身分にこだわらず、才能のある人や、罪を犯して他国に居られなくなった人も積極的に登用する国柄に成長していきます。
そんな秦が他国と一線を画して決定的に強くなる切っ掛けがやってきます。
秦が決定的に強くなる切っ掛けとは?
それが公孫軮(こうそんおう:BC390~338)という人物です。彼は魏の宰相の公俶座(こうしゅくざ)という人に仕えていました。公俶座(こうしゅくざ)は、病を得て、魏王に自分の後継者として公孫軮(こうそんおう)を推薦します。
「もし、王が軮を用いるならお早めに、使わないなら殺す事をオススメします」公俶座は、公孫軮の才能を知り抜き、対処を急ぐように示唆したのです。
ところが、魏王は公俶座の言葉を真に受けませんでした。公孫軮は、魏に愛想を尽かし、国外に脱出しツテを頼って秦に入ります。そこで、秦の孝公に謁見して自説を説いて直ぐに宰相に抜擢されるのです。
公孫軮の大々的な改革
公孫軮は、秦の商の土地を貰い、商軮と名前を改めます。そして、「商軮の変法」という一大改革を実行するのです。
商軮の変法って何?
これは平たく言うと、秦の国を厳罰を含む法で縛りあげて、不正を無くし、人民の力を極限まで絞りだす全体主義でした。商軮の法では、秦の人民は、5から10戸の家毎にグループを造りそれぞれが不正を行わないように監視をさせます。
そして、もし、10戸の家の内に1戸でも不正があって告発しなかったら、10戸全ての家が処罰されました。逆に不正を密告したら、報奨金を与えたと言います。
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不正が消えていった秦
秦の人民は、商軮の法を恐れ、お互いを厳格に見張り、必死で働くようになります。世の中は窮屈になりましたが、不正は消え、見る間に秦は富んでいきました。これは、貴族のような身分の高い階級でも容赦なく適用されましたので、商軮は、処罰された貴族に激しい恨みを買うようになります。
商軮の後ろ盾の秦の孝公が死ぬと、貴族達の抑えつけられた恨みが爆発皮肉にも商軮は自分が造った法によって罪に問われ処刑されました。しかし、商軮が残した変法は廃止されず、その後も生き続けて、秦が天下を統一する原動力になるのです。
曹操の人材哲学について
因みに、三国志の曹操と言えば、人材を能力で判断して、性格上の瑕疵や、身分にこだわらなかった人ですが、それには自身が宦官の孫であるという出自の偏見から来るコンプレックスに理由があったようです。
曹操自身が、いわれなき偏見に苦しめられたから、人間を出身や、性格の欠陥ではなく、能力第一で見て細かい欠陥には目をつむるという曹操流の哲学が完成したのかも知れません。ここは、田舎故に品行方正な人物が来なかった秦と曹操の共通点かも知れませんね。
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