
今回、はじめての三国志で紹介する人物は、馬にも乗れず、弓術や剣術がめっぽう弱い杜預(どよ)です。
えッ。そんな武将紹介する必要なくない。そんな事はありません。この杜預はすごい人で三国志になくてはならない武将です。今回は三国時代終盤に出現し、天下統一の仕上げを果たした人物、杜預を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
一つの事を研究し極めた杜預
名門出身の坊ちゃん杜預は弓も剣術もできない、馬に乗せたら落馬する武将の資質が全くありませんでした。しかし彼にはだれにも負けない物が一つだけありました。それは史書を読む読書量と研究です。特に「春秋左氏伝」を中心に研究しておりました。青年期は朝廷に仕えず、史書の研究に時間を当てています。研究に没頭していた杜預ですが、司馬昭の娘を嫁に迎えた事で、朝廷に仕えることになります。ここから晋の名将・杜預の道が始まります。
国の基盤となる法律作りを手掛けた杜預
杜預はしっかりとチャンスをつかめる名指揮官です。しかしいきなり戦闘の現場指揮官として頭角を現したわけではありません。まずは政治家としての道を進んでいきます。司馬昭の重臣賈充と共に法律の制定を手掛けます。役人の昇進や降格に対する法を制定する際に杜預は「毎年、人望のある役人には優のマークをあげます。また素行や評判の良くない役人には劣マークを一つ上げます。このマークを毎年一つずつ上げていきます。6年後にマークの集計を行います。この時、優のマークをいっぱい持っている役人を昇進させます。また優のマークと劣のマークが等しくあった場合は少し昇進させます。最後に劣のマークを大量に持っている役人は降格させたり、左遷させたりすればよいでしょう」と画期的なアイデアを上司に進言します。現在では取り入れている出来高制の先駆けといえる法律でありますが、この当時、画期的過ぎて受け入れてもらえませんでした。
船の転覆事故が多発、橋の工事を提案
その後、杜預は孟津で船の転覆事故が多発していたことを聞き、橋の架橋工事を提案します。しかし、朝廷に仕える臣は「周や殷(古代中国の王朝名)では自らの都に橋を造らなかった。その為橋を作る必要がない」と言い杜預の提案を退けます。しかし杜預は「『船を作って橋となす』と故事にあるではないか。これは船を橋の代わりにして船橋を作ったという証ではないのか」と反論し、反対した臣を納得させます。その後、杜預はしっかりした橋を作ったため転覆事故は激減しました。このように杜預の政策に無駄が無く的確な政策をすることで名を高からしめ、実績を積んで行きます。
喧嘩が原因で2回もくびに
朝廷で国の基盤について学び実績を上げた杜預は、異民族討伐の命令を受けて出陣します。反乱を起こした異民族の勢いは激しく、さらに装備が充実して兵は強く、向かう所敵なしの状態でありました。しかし、一緒に出陣した上司から「杜預、敵を蹴散らして来い」と命令を受けます。杜預は「勢いのある異民族にいま立ち向かっても、負ける可能性が大です。こちらの装備を整え、訓練をしっかり行ってから出陣したいと思います」と出陣することの不利を上司に進言します。
上司は激怒して「杜預は、自らの陣営を飾り付けて、戦いに行きません。」と皇帝である司馬炎(しばえん)に諫言します。この諫言を聞いた司馬炎はすぐさま杜預を連れ戻し、爵位を剥奪します。
その後、異民族討伐に向かった上司はコテンパンにやられてしまい、杜預の予想通りの結果になります。杜預の軍略を認めた司馬炎は爵位を与え、匈奴討伐へ向かわせます。杜預は討伐軍を動かさないことを決めた後、軍勢が駐屯した地域の農業生産力を拡充させ、近隣都市の財政も立て直します。しかし、ここでも杜預は上司と口論となり、解雇されてしまいます。だが統治者としての能力を見せつけた杜預は、喧嘩のした罪が許されて再び晋に仕えます。
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「破竹の勢い」で呉を倒した名将・杜預
さて政治家・統治者として成功を重ねていた杜預です。杜預の能力の高さを見抜いた羊祜(ようこ)は、杜預を後任に推薦した後、亡くなります。杜預は羊祜の後任として荊州に赴きます。しばらく領地経営を続けながら、呉の内情を調べます。調査した結果、呉が衰弱していることを見抜いた杜預は「呉の討伐は今です。すぐさま出陣するべきです」と司馬炎に進言します。
司馬炎は呉討伐の出陣を許可
司馬炎は即座に呉討伐の出陣を許します。出陣の許しを得た杜預は、長江沿いに展開していた呉の守備兵を蹴散らします。その後、呉の都市をいくつも陥落させ、その進撃ぶりは留まることを知りませんでした。今まで優れた政治家の顔を見せていた杜預ですが、呉を討伐させる戦で、司令官としての能力を開花させます。呉軍を蹴散らし、連戦連勝を続けた晋軍ですが、ここで問題が発生します。喧嘩ではありませんよ。
破竹の勢いの由来
冬に討伐軍を率いて呉の領地に侵攻し、一度も敗れる事無く進軍し、気づけば夏になっておりました。諸将は「もうすぐ夏になろうとしています。夏になり、気温が上昇すると疫病が蔓延することがあるため、一度退却しましょう」と進言してきます。諸将の言を聞いた杜預は「今、わが軍の勢いは激しく、例えるなら竹を割く時のような勢いがある。この勢いでわが軍の攻撃を受ければ、呉国は瓦解し、後は軍が不要となるだろう。そのためここで退くわけにはいかない」と諸将に説明し、呉都建業に進軍を開始します。この杜預の言葉が現在に残っている「破竹の勢い」の由来となっております。物事が容易に行える時などに使われる故事成語です。
呉の皇帝・孫晧は降伏、晋の天下統一戦を果たす
杜預の予想通り、諸城から激しい抵抗を受ける事無く、簡単に建業まで進みます。この晋軍の強さを目の当たりにした呉の皇帝・孫晧は降伏し、孫呉は滅亡します。後漢から続いた戦乱の世はこうして幕を閉じ、晋は天下統一の偉業を成し遂げます。
杜預の最期
その後、杜預は政治家として非凡な領地経営を行い民衆に慕われますが、63歳で死去します。晋の歴史家は彼を「人と親交を結ぶときは礼儀をもって接し、問われた事には包み隠さず話し、時期を見ることに機敏な人物である」と褒め称えたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
呉を倒した杜預は「私は政治家です。武官ではないのでいりません」と言い、司馬炎からの恩賞を辞退したそうです。結局司馬炎が許さなかったのでもらうのですが。杜預はみずから武官でないと言っております。確かに乗馬ができず、弓術や剣術の資質が無い杜預でしたが、彼は文武両道に秀でた名将だと私は思います。皆さんはどう思いますか。








