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司馬炎は呉討伐の出陣を許可
司馬炎は即座に呉討伐の出陣を許します。出陣の許しを得た杜預は、長江沿いに展開していた呉の守備兵を蹴散らします。その後、呉の都市をいくつも陥落させ、その進撃ぶりは留まることを知りませんでした。今まで優れた政治家の顔を見せていた杜預ですが、呉を討伐させる戦で、司令官としての能力を開花させます。呉軍を蹴散らし、連戦連勝を続けた晋軍ですが、ここで問題が発生します。喧嘩ではありませんよ。
破竹の勢いの由来
冬に討伐軍を率いて呉の領地に侵攻し、一度も敗れる事無く進軍し、気づけば夏になっておりました。諸将は「もうすぐ夏になろうとしています。夏になり、気温が上昇すると疫病が蔓延することがあるため、一度退却しましょう」と進言してきます。諸将の言を聞いた杜預は「今、わが軍の勢いは激しく、例えるなら竹を割く時のような勢いがある。この勢いでわが軍の攻撃を受ければ、呉国は瓦解し、後は軍が不要となるだろう。そのためここで退くわけにはいかない」と諸将に説明し、呉都建業に進軍を開始します。この杜預の言葉が現在に残っている「破竹の勢い」の由来となっております。物事が容易に行える時などに使われる故事成語です。
呉の皇帝・孫晧は降伏、晋の天下統一戦を果たす
杜預の予想通り、諸城から激しい抵抗を受ける事無く、簡単に建業まで進みます。この晋軍の強さを目の当たりにした呉の皇帝・孫晧は降伏し、孫呉は滅亡します。後漢から続いた戦乱の世はこうして幕を閉じ、晋は天下統一の偉業を成し遂げます。
杜預の最期
その後、杜預は政治家として非凡な領地経営を行い民衆に慕われますが、63歳で死去します。晋の歴史家は彼を「人と親交を結ぶときは礼儀をもって接し、問われた事には包み隠さず話し、時期を見ることに機敏な人物である」と褒め称えたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
呉を倒した杜預は「私は政治家です。武官ではないのでいりません」と言い、司馬炎からの恩賞を辞退したそうです。結局司馬炎が許さなかったのでもらうのですが。杜預はみずから武官でないと言っております。確かに乗馬ができず、弓術や剣術の資質が無い杜預でしたが、彼は文武両道に秀でた名将だと私は思います。皆さんはどう思いますか。