杜預(どよ)ってどんな人?破竹の勢いで有名になった政治家

2015年11月7日


 



監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬炎は呉討伐の出陣を許可

 

司馬炎は即座に呉討伐の出陣を許します。出陣の許しを得た杜預は、長江沿いに展開していた呉の守備兵を蹴散らします。その後、呉の都市をいくつも陥落させ、その進撃ぶりは留まることを知りませんでした。今まで優れた政治家の顔を見せていた杜預ですが、呉を討伐させる戦で、司令官としての能力を開花させます。呉軍を蹴散らし、連戦連勝を続けた晋軍ですが、ここで問題が発生します。喧嘩ではありませんよ。

 

破竹の勢いの由来

 

冬に討伐軍を率いて呉の領地に侵攻し、一度も敗れる事無く進軍し、気づけば夏になっておりました。諸将は「もうすぐ夏になろうとしています。夏になり、気温が上昇すると疫病が蔓延することがあるため、一度退却しましょう」と進言してきます。諸将の言を聞いた杜預は「今、わが軍の勢いは激しく、例えるなら竹を割く時のような勢いがある。この勢いでわが軍の攻撃を受ければ、呉国は瓦解し、後は軍が不要となるだろう。そのためここで退くわけにはいかない」と諸将に説明し、呉都建業に進軍を開始します。この杜預の言葉が現在に残っている「破竹の勢い」の由来となっております。物事が容易に行える時などに使われる故事成語です。

 

呉の皇帝・孫晧は降伏、晋の天下統一戦を果たす

 

杜預の予想通り、諸城から激しい抵抗を受ける事無く、簡単に建業まで進みます。この晋軍の強さを目の当たりにした呉の皇帝・孫晧は降伏し、孫呉は滅亡します。後漢から続いた戦乱の世はこうして幕を閉じ、晋は天下統一の偉業を成し遂げます。

 

杜預の最期

 

その後、杜預は政治家として非凡な領地経営を行い民衆に慕われますが、63歳で死去します。晋の歴史家は彼を「人と親交を結ぶときは礼儀をもって接し、問われた事には包み隠さず話し、時期を見ることに機敏な人物である」と褒め称えたそうです。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

呉を倒した杜預は「私は政治家です。武官ではないのでいりません」と言い、司馬炎からの恩賞を辞退したそうです。結局司馬炎が許さなかったのでもらうのですが。杜預はみずから武官でないと言っております。確かに乗馬ができず、弓術や剣術の資質が無い杜預でしたが、彼は文武両道に秀でた名将だと私は思います。皆さんはどう思いますか。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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