魏の五都の人口は?魏は斉になっていた?斉・呉・蜀の三国志

三国志地図

 

魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の中でも、は圧倒的な勢力を有していた事は

三国志ファンなら、誰でも知っている事だと思います。

では、その魏の中でも五都と呼ばれて特に重要視された五都市の事は、

知っていますか?

今回は、知られざる魏の主要都市を紹介してきましょう。

 

関連記事:三国志地図|中国にも九州があった?州について分かりやすく解説

 

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小説だけでは分からない、魏の五都とは

魏の五都

 

魏の五都とは、後漢の帝都があった、洛陽、前漢の帝都があった長安

袁紹(えんしょう)の本拠地であった鄴(ぎょう)、後漢の献帝が鎮座した許(きょ)

そして曹操の出身地の譙(しょう)の五つの都市を指しています。

これらの都市は、政治的に重要だったり人口が多かったりと、魏にとっては、

無くてはならない拠点として機能していました。

 

関連記事:衝撃の事実!三国時代に魏・呉・蜀なんて『国』は存在しなかった!?

 

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魏の五都の人口は、どの程度だったのか?

世界情勢

 

あくまでも、都市の人口であり州の人口とは違いますが、

洛陽、長安、鄴、許、譙の人口は以下の通りだったようです。

 

洛陽・・・・50万人

長安・・・・12万人

鄴・・・・・12万人

許・・・・・不明(データ無し)

譙・・・・・不明(データ無し)

 

これは、あくまでも戸籍に掲載されている分の人数であり、

後漢末の戦乱で田畑を捨てて農業以外に従事している人や、

屯田民である、兵戸や民戸はカウントには入っていません。

 

また、豪族の私有民となった人々も私民で公民ではないので、

その人数は戸籍にはカウントされません。

 

そういう事を勘案すると実際の人口は、上のデータの倍位は、

いたのではないかと考えられます。

 

知ってた?実は帝都では無かった許昌

現実主義曹操

 

魏の都というと、許、もしくは許昌と答える人が多いです。

かくいうkawausoもそうでしたが、実は三国志の時代を通じて、

魏の首都が許だった事は、ただの一度もありません。

 

曹操の時代の首都の役割を果たしたのは元々は袁紹の本拠地であった鄴で

曹操の死後は、曹丕(そうひ)によって洛陽に遷都しています。そんなわけで、許は

一度も都になった事がないのです。

 

許は長安の李傕(りかく)、郭汜(かくし)の横暴から逃れた献帝(けんてい)を

保護して皇帝の仮の住まいにしたというだけの場所であったようで、

行政単位も県であり、規模も大きなものではないようです。

 

それでも、皇帝のいる場所が世界の中心という当時の考え方としては、

あくまで精神的な漢の首都という意味合いもあり神聖な土地でした。

 

【次のページに続きます】

 

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