一昨年から、国会前でデモを繰り返している大学生の集団、SEALDs。よくメディアでは、噂になるけど、一体彼等は何をしているのでしょうか?
社会面にも鋭くアンテナを向けるはじさんはSEALDsについて調べてみました。すると、三国志の直前の後漢時代にもSEALDsに良く似た清流派党人による学生運動が起きた事が分かってきたのです。
この記事の目次
- いまさら聞けないSEALDsって何の事?
- SEALDsは、どうして生まれたの?
- SEALDsの目的は何なの?
- SEALDsの特徴とは?
- SEALDsは危険な連中じゃないの?
- 今から1800年前、中国にもSEALDsがいた!
- 清流派は、どこから支持者を集めたの?
- SEALDsとよく似ている後漢の太学生達
- 清流派は、どうして宦官を糾弾したのか?
- 西暦166年 第一次党錮の禁が起きる
- 逮捕はされたものの釈放された清流派
- 第一次党錮の禁は、清流派党人の名声を高めてしまう・・
- 清流派の人気を利用し外戚、竇武と陳蕃が組み大惨事に
- 党錮の禁で釈放された清流派が第二次党錮の禁で殺される
- 濁流派と宦官と霊帝の無能が黄巾の乱を呼ぶ
- 三国志ライターkawausoの独り言
いまさら聞けないSEALDsって何の事?
そもそも、SEALDsとは何を意味しているのでしょうか?
それは、S:Students(学生) E:Emergency(緊急)A:Action for(行動を通して) L:Liberal(革新)D:Democracy s、(民主政治)の頭文字を取ったものです。
日本語による正式名称は、「自由と民主主義の為の学生緊急行動」と言います。一方の清流派党人というのは、汚職がないクリーンな政治を志す党人です。党はパーティーですから、集団であり、割合SEALDsに近いイメージです。
SEALDsは、どうして生まれたの?
SEALDsが誕生した切っ掛けは、安倍政権が2013年12月6日に成立させた特定機密保護法案です。この法律は、秘密の度合いが曖昧であり、政府が恣意的に秘密を認定できるという問題があり、連日マスコミでも報道されました。この時に、東京の大学生・大学院生の間でSASPLという組織が出来ました。これが、特定機密保護法案の可決成立後も解散せず、継続、発展したのが、現在のSEALDsなのです。
SEALDsの目的は何なの?
SEALDsは、何も目的もなくバカみたいに国会前に集まっているわけではありません。その目的は、立憲主義(憲法を守ろう)社会保障(貧困層を斬り捨て政策を止めろ)そして、安全保障(平和的外交を志向して武力の威嚇を止めろ)に要約されます。
まあ、このいずれの目的も、安倍政権が進める、審議無視、無し崩しの安保法案通しや、社会保障費の削減、米軍と一体化して、中国と対決姿勢を強めるなどと相反しているので、SEALDsにとっての、当面の敵は安倍政権という事になるのです。
SEALDsの特徴とは?
政治集会というと石頭の労組オジサ連中や怖いヤクザのような右翼が行うものという先入観があります。SEALDsはそれを覆そうと、ラップやライブなど若者受けする表現方法を多用して支持者を集めています。
SEALDsは危険な連中じゃないの?
政治活動している人って、極左とか言われる危険な人達じゃないの?
という疑念を持つ方もいると思います。特に安倍政権を支持する保守派やネトウヨと呼ばれる人々は、SEALDsは、日本共産党や、日本民主青年同盟、新左翼のような、極左団体と繋がっていると主張していますが、
ほとんどは、普通の学生であると公安も発表しています。ほとんどというのは、SEALDsが使用した街宣車のナンバープレートと車種が全労連のような極左組織が所有している街宣車と同じだったというような疑惑があり、これに関してはSEALDsのリーダーの一人、奥田愛基(あき)氏が、借用を認めているからで、メンバーの幾人かは、極左団体と繋がりがあると考えられるフシがあります。
今から1800年前、中国にもSEALDsがいた!
さて、今から1800年の昔の後漢末の中国にもSEALDsのような存在がいました。当時の中国は、皇帝が宦官を厚く用いる事甚だしくこれに乗じて汚職を繰り返す宦官が大勢いました。それに反対して、宦官から政治を取り戻そうとする、清流派という知識人も大勢残っており、彼等清流派の知識人と、宦官、それに宦官に媚びを売り生き残ろうとする濁流派と名付けられた人々の政治抗争こそが、党錮の禁と呼ばれる事件なのです。
清流派は、どこから支持者を集めたの?
清流派の知識人の大半は、まだ仕官していない洛陽の太学で学ぶ学生達でした。当時の洛陽には、地方から集まった太学生が3万人も存在していて一つの勢力になっていたのです。また、清流派を構成しているのは、地方の豪族出身の子弟で仕送りがあるので、喰うには困らず、宦官の横暴に憤る太学の先生や、役人達の話を聞いて、憤慨して、徒党を組んで、宮殿にデモにゆく元気もありました。宦官は、度々、大勢でデモに来る太学生に弱り、宮廷に仕えている官僚達は、この太学生を利用して、宦官を排斥しようと近づいたのです。
SEALDsとよく似ている後漢の太学生達
こうして見ると、現在日本のSEALDsと、後漢の太学生は、よく似た動機から、デモに参加している事が分かります。どちらも、まだ就職してはいないので、一定の時間的な余裕があり首都の学生なので、デモできる場所も近いのです。
清流派は、どうして宦官を糾弾したのか?
SEALDsには、政治集会を行う目的がありましたが、では、清流派には、どうしても、宦官を糾弾しなければならない理由があったのでしょうか?
それはありました、その大きな動機は、孝廉(こうれん)の制度を宦官に握られたという事にあります。孝廉は、元々、地方の郡太守が、地元から声望の高い人士を推挙して、役人を送り込む制度でした。太学を卒業した、清流派の豪族の子弟は、一度、故郷に帰り、孝廉で推挙されて役人としての一歩をスタートさせたのです。ところが、この孝廉まで、宦官に握られると、宦官は自分に賄賂を送った人間を推挙して、清流派の人士を無視しました。役人になりそこねる事態になった清流派の知識人たちは、強い不満を持ち、自分達の就職の口を取り戻す為に、一致団結するようになったのです。
西暦166年 第一次党錮の禁が起きる
西暦166年、清流派党人と宦官の対立が最初の衝突を迎えます。この年、司隷校尉の李膺(りよう)と太学生の郭泰(かくたい)、賈彪(かひょう)が中心になり、中常侍を弾劾する上奏文を朝廷に送りました。しかし、皇帝の耳と口を完全に奪っている宦官は、この弾劾を皇帝に見せず、逆に、「党人どもが政治を誹謗しています」と訴えます。桓帝は、宦官を信用し、弾劾に参加した200名に上る、清流派党人が逮捕されます。
逮捕はされたものの釈放された清流派
ところが逮捕しても、相手は社会の嫌われ者の宦官に盾突いた清流派です。すぐさま、世間の同情が集まり、また、地方の豪族達も自分達の息子を釈放しろと騒ぎ始めました。それで、宦官勢力は、誰も処刑する事が出来ず、結局全員を免職にして、二度と復職させないという処分(当時これを禁錮刑と言った)を下したのです。
第一次党錮の禁は、清流派党人の名声を高めてしまう・・
ところが、事実上、無罪放免になった事で、清流派の名声は上がりました。中には、逮捕されなくては、清流派としての体面が持たないと考え、わざわざ自首した、清流派の太学生もいた位でした。ここで、宦官相手のデモはファッションや流行と化したのです。清流派の太学生達は敗北したものの自信を深め、それは、悲劇的な結末へと繋がりました。
清流派の人気を利用し外戚、竇武と陳蕃が組み大惨事に
さて、殺されなかったものの、地方に飛ばされ、一生仕官できなくなった清流派の党人達は、宦官に対する不満を抱えていました。庶民の人気が高い、清流派を利用して、宦官を排斥しようと考えた大将軍の竇武(とうぶ)と官僚の陳蕃(ちんばん)は、清流派の知識人を大勢登用して宦官包囲網を敷きます。そして、手始めに中常侍の宦官の数名を誅殺しました。ですが、これだけでは、宦官の害を除く事は出来ないと知った両名はいよいよ、武力蜂起を決行しようとします。
西暦169年、20年後には袁紹(えんしょう)が宦官を皆殺しにしてしまいますが、今回の計画は躊躇している間に宦官に漏れてしまいました。
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党錮の禁で釈放された清流派が第二次党錮の禁で殺される
宦官勢力は先手を打ち、
「竇武と陳蕃が帝を廃位しようとしている」と嘘をつきます。即位したばかりの霊帝は、驚き、近衛兵を与えて討伐を命じます。こうして大将軍竇武が率いる、五営の兵と宦官の率いる近衛兵は、激突しますが、竇武軍は敗北して竇武は自殺しました。誅殺されかけた、宦官の怒りは止まりません。
「それもこれも、全て、清流派の党人が悪い」
と考えた彼等は、霊帝を動かし、かつて捕えた清流派の党人を再び逮捕して、次々と処刑していきました。党錮の禁は、デモに参加した人間のもならず、その親戚縁者まで逮捕されるまで規模が広がり、清流派の力は一掃されたのです。
濁流派と宦官と霊帝の無能が黄巾の乱を呼ぶ
こうして、清流派の消えた宮廷では、宦官と、宦官に媚びへつらう濁流派の役人だけが残りました。もちろん、中には心ならずも宦官に従っている役人もいましたが、年中賄賂と汚職が蔓延ると慣れっこになっていきました。折悪しく、皇帝の霊帝自身が売官により私腹を肥やしたので、清流派が消えた宮廷では腐敗の歯止めが消えてしまいました。庶民は重税に苦しみ、清流派の知識人に変わり、信仰に救いを求めます。そこで、台頭してきたのが太平道であり後の黄巾賊なのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
清流派の党人と、SEALDsで大きく違う事もあります。それは当時と違い、現在は選挙権があり政治家を選べるという事です。SEALDsのデモこそ、デモクラシーだという声もありますが一方では、国会前でパフォーマンスをするよりも、日常に戻り就職して仕事を持って周囲の人達と信頼で繋がり、政治への関心を広げるような小さな活動を始める方が有意義だという小林よしのり氏のような意見も出ています。
実際にSEALDsのメンバーは奥田氏のようにメディア露出が増え時代の寵児のように扱われる有名人もいます。でも、それは1800年の昔、清流派の党人勢力が宦官を倒す為の道具として使われたのに似てはいないか?とも思います。政治を変える第一義はデモではなく、ちゃんとした政治家を選ぶ投票行動であり、それを養う為の確かな目であるとkawausoは思います。