【宦官の逆襲】後漢が滅んだのは本当に宦官のせい?悪いのは俺達だけじゃない!!

2016年5月7日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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外戚を倒し、後漢を助けた忠義の宦官 鄭衆(ていしゅう)

 

趙高

 

後漢の4代皇帝の和帝(わてい)は、10歳で即位した幼い皇帝でした。

当然のように、そうなると皇帝の生母の一族、外戚が政治を行うようになります。

和帝の場合には、父の章帝(しょうてい)が愛した、竇夫人の一族である

竇憲(とうけん)が皇帝が幼いのを良い事にのさばります。

 

しかし、和帝は成長するに従い、竇憲の専横に反発心を持ちます。

そこで、和帝は、宮中にあって竇憲に媚びを売らない硬骨漢である

宦官、鄭衆を呼び出し、竇一族を誅殺せよと命じるのです。

 

それを知った竇憲は、和帝を毒殺して帝を変えようとしますが、

鄭衆の動きが早く、竇憲を誅殺して、さらに一族を皆殺しにします。

鄭衆はこの手柄で宦官の最高位の大長秋(だいちょうしゅう)に登り詰め、

さらに後漢の宦官では初めての鄛郷侯(ぎょうごうこう)になります。

 

こうして、皇帝の信任を得た鄭衆ですが、宦官らしからぬ真面目な人で

汚職とは無縁だったようです。

ただし、鄭衆より後の宦官は政治的に無能で、貪欲な人が多かったので

後漢でも宦官の被害が拡大していきます。

 

幼い皇帝を中心に宦官と外戚の権力闘争が続く

霊帝

 

その後も後漢は、安帝(あんてい)、沖帝(ちゅうてい)、

質帝(しつてい)、桓帝(かんてい)と幼い皇帝が立つ度に、

最初に外戚がのさばり、その外戚を今度は宦官が皇帝サイドに立ち、

排除するという似たような政争を繰り返す事になります。

 

そもそも、外戚がまともな政治をすれば、宦官が皇帝に色々吹き込む隙は

ないのですが、外戚も、自分の近親者を高位につけて好き放題をするので、

脛に傷は常にあり、内乱の種は消えなかったのです。

 

宦官を批判するなら、皇帝を蔑ろにして、権力を振り回す外戚も、

同じように批判されないとオカシイでしょう。

 

最凶の外戚 梁冀(りょうき)登場、

 

 

さて、西暦141年になると、最凶の外戚が登場します。

それを大将軍、梁冀と言い、後漢の8代皇帝、順帝(じゅんてい)に

妹が嫁いだ事で外戚として巨大な権力を振るうようになります。

 

梁冀は、凶悪な人相の持ち主で、吃音(きつおん)

小心者で猜疑心が強く、また異常に短気で短絡的、

気に入らないと思った人物は、あっさり暗殺してしまう冷酷な人物です。

その為に、誰もが梁冀を恐れて逆らわなくなります。

 

順帝が死ぬと、梁冀の妹、梁夫人の産んだ、息子の沖帝が

2歳で即位しますが僅か1年後に死亡、(梁冀の毒殺の噂も)

すると、梁冀は、今度は、年長の皇帝をという声を無視して、

再び、8歳の質帝を即位させます。

 

ところが質帝は幼いながらに聡明な少年で、独裁者として振る舞う

梁冀を「跋扈(ばっこ)将軍!!」と堂々と批判しました。

それを聞いた、梁冀は「こいつはコントロールできない」と判断し

毒殺、再び、幼少の桓帝を即位させます。

 

いかに宦官でも堂々と皇帝を毒殺するような真似は出来ません。

少なくとも漢においては、そんな事例はないでしょう。

その分だけ外戚は宦官より悪質な人間が出てくる場合が多いと言えます。

 

 

桓帝、また宦官の力を借り、梁冀を誅殺

 

 

桓帝は14歳で即位しますが、やはり梁冀の操り人形でした。

すべてにおいて、梁冀に嫌気が差した桓帝が頼ったのは、

やはり宦官勢力でした。

 

大体、梁冀の恐ろしさに清流派と言われた高級官僚までが、

明確な反対運動を打ち出せないのですから、

桓帝が頼れるのは、身近にいて後宮において密謀が立てやすい

宦官しかありませんでした。

 

相談に預かった単超(たんちょう)以下、5名の宦官は、

梁冀派の宦官を殺して、梁冀のパイプを断ち、帝の命令で軍を動かして、

梁冀を宮殿に包囲します。

もはや、これまでと悟った梁冀は、家族を手に掛けて自殺、

ここに外戚梁氏の独裁は集結しました。

 

梁冀の独裁は、それまでの外戚の横暴の中でもずば抜けて、

ヒドイものであり、梁冀の没収された財産は、国家予算の50%に匹敵。

中央の役人の大半も梁冀のコネであり、その数は300名にも及び、

残らず、これらを粛清した結果、政府は深刻な人手不足に陥った

と言われる程の悪事でした。

 

梁冀の死後、のさばる宦官に清流派が逆襲

 

 

159年、梁冀が死ぬと、桓帝は親政を開始し、梁冀誅殺に手柄のあった

5人の宦官を全て侯にして領地を与えるなど優遇します。

特に、単超には2万戸という破格の食邑を与えていました。

 

こうして、宦官の勢力が伸びると、在野の清流派と呼ばれる儒者の勢力が

宦官の排斥を叫んで運動を開始します。

 

梁冀がブイブイ言わせている時は、黙って見ていた癖に、

それが宦官に倒されると、正義顔をして出てくるのは清流派のパターンです。

今出てくるなら、梁冀が独裁権力を振るっている時に運動をやれ!

 

もちろん、自分達の権利を奪われたくない、

宦官は、これを攻撃して、清流派を逮捕したり処刑したりしました。

これが2度に渡って続いた党錮(とうこ)の禁(きん)です。

 

錮とは、塞ぐ閉じ込めるという意味で、元々、政治犯に課せられる刑罰。

刑務所や自宅に収監、軟禁を命じて、有期或いは無期、

外に出さないというもので、今の世の中でも禁錮刑という言葉で

名残りが残っています。

 

党錮の禁は、清流派の宦官抹殺計画で苛烈になる・・

 

 

第一次党錮の禁は、宦官の勝利に終わりますが、

清流派儒者の出身母体である地方の豪族の処罰反対運動が起き

宦官は、事を穏便にすまさざるを得なくなり、200名が投獄されるも、

処刑はされず清流派の公職追放措置のみに留まりました。

 

ところが、それで、出世の道を阻まれた清流派の儒者達は、

外戚の竇武(とうぶ)と清流派のリーダー陳蕃(ちんばん)が手を組み、

西暦169年、桓帝の死の空白を突いて宦官の皆殺しを計画しますが、

宦官の情報網はこれを事前にキャッチして、こちらも兵を動かし、

逆に竇武を誅殺しました。

 

皆殺しにされかけた宦官達の怒りは凄まじく、、

今度は陳蕃を含め、名だたる清流派の儒者が投獄されて処刑、

死者は100名を超え、清流派というだけで、無関係な人間まで

投獄、公職追放処分に遭います。

 

清流派が消えた結果、政治は救い難い状態に・・

 

 

清流派の儒者は、イデオロギーはどうあれ、政治的には有能な人が多かった

のですが、党錮の禁により、ほとんどが政治から消えます。

代わりに、宦官が派遣した濁流派の腐敗役人が政治を私物化して、

世の中は多いに乱れ、また子供がいない和帝の次に即位した

霊帝の売官政策は、混乱に拍車を掛けました。

 

結局、宦官と外戚の争いは、政治を混乱させ、黄巾賊の乱、

袁紹、袁術のような清流派の流れをくむ官僚による宦官の大虐殺、

そして、董卓の暴力政治を呼び寄せて漢を滅ぼすのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

宦官は、生殖能力を失う代わりに皇帝の下僕として気にいられ、

貧しい生活を抜け出し栄華を極めたいという人達で大勢を占めていました。

もちろん、罪による死を免れるために、泣く泣く宦官になった人も

いましたが、それは少数でした。

元々、我欲の為に宦官になるのですから、

腐敗の温床になりやすい地位ではあったのです。

 

しかし、一方の外戚も、皇帝に后を提供して、男子が生まれて、

即位するようなら、母方の親戚として権力を振るおうという

これまた、俗っぽい人間の集まりでした。

 

まともな外戚も、少しはいますが、大抵は平気で皇帝の首を

すげ替えて自分の権力を維持しようという連中です。

 

幼少の皇帝はしばしば、この外戚に権力を奪われ、

家来も外戚を恐れて言う事を聞かず、結局、宦官に頼って

外戚を排除するしかありませんでした。

どう悪く見ても、宦官は外戚と同程度か、外戚よりも少しマシ

という程度であり、三国志演義に見られるような諸悪の根源のような

扱いは、不当だと言えるでしょう。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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