貨幣が登場して、私達の生活は便利になり、ショッピングという新しい娯楽も誕生する事になりました。
それは、三国志の時代でも同じですが、当時は今と違い、ショッピングもかなり大変だったようです。そこで今回は知られざる三国志の時代のショッピングの様子を見ていこうと思います。
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三国志の時代の人は、貨幣を背負って買い物していた?
私達は、誰でも財布というものを持っていて、その中にお金やカード類を入れて持ち歩いています。しかし、三国志の時代、財布というものは殆ど存在しませんでした。
当時の貨幣は、五銖銭と言い、一枚の重さは3・35g、その後加工するのでおおよそ3グラムの重さを持っていました。この五銖銭ですが、当時の人々は、これを単独で保有していたのではなく1000枚単位で紐を通して肩に担いで使用していました。
五銖銭を1000枚で一貫という単位になるのですが、単純計算でも、その重さは3キロにもなります。スーパーで買えるお米を背負っている感覚になり、長時間背負うのはかなり骨が折れたでしょう。
三国志の時代には、男も女もかなりの力持ちだったのです。
そんな大量の五銖銭を背負っていた理由は?
では、どうして、当時の人々は、そんなに大量の五銖銭を持ち歩いていたのでしょうか?
必要な分だけ、持ち歩けば楽なのに、そう疑問を持ちますよね?
実は、同じ頃の古代ローマ等と違い、当時の中国で流通している硬貨は五銖銭、一種類のみでした。そう、五銖銭を超える高額通貨というものが存在しないのです。
現代に例えれば、すべての買い物を100円玉で済ます事をイメージして頂くと分りやすいでしょう。
もし、数万円分の買い物をするのに、硬貨が100円だけだったらそりゃあ、財布には入りませんよね?
三国志の時代の人々が財布を持ち歩かないのは、つまり、銭が多すぎて、最初から財布が役に立たないからなのです。
大変過ぎ、本格的な市場は、遥かに遠い場所にあった。
当時の市場は、列肆(れつし)と言い、県という行政単位に一つ程度が普通でした。しかし、実際の行政単位は、それよりも細かく分かれていて、県の下には郷という単位があり、郷は、里という単位がいくつか集まり成立していました。
里は、100戸名単位で500名余りが生活していましたが、当然、ここに住所を持つ多くの人の周辺には、市場は無かったという事になります。
そうなると、里に住む人は、ショッピングになると、えっちらおっちら、時には、泊りがけで県の市場まで、小さな旅行をする事になりました。
例えば、後漢の時代、白米は1石(漢の一石は17キロ)で、400銭程しました、これも物価の変動があるので、いつでもこの価格ではありませんが、それでも、五銖銭を1000枚持っていき半分使う事になります。
当然、家人が多ければ2000~3000銭持って行ったかも知れないので、銭の重量は10キロを超えるという事にもなりました。
つまり遠い県の市場へは頻繁には通えないので、ある程度まとめ買いをする必要があり、それが大量のお金を背負うという形になり出現してきたのです。
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購入した商品は手押し車などに乗せて帰る
同時に購入した大量の商品は手押し車などに乗せて、持って帰っていたようです。
今風に言えば、自家用車で郊外の大型ショッピングセンターに行き一週間分の食料をまとめ買いするような感覚かも知れません。もっとも、政府非公認の小さな市場も、坐賈(ザコ)と呼ばれ里の外側で開かれる事はありました。
これは、店舗を構えず、露天で座って行う商売なのでこう呼ばれます。日常生活に必要な物資は、手軽にそこで買えたのですが、商品の質が悪かったり、乱暴な人間が多いなどで、本格的なショッピングでは市場を利用していたようです。
すべてに値札が貼られている良心的な店
さて、県に造られていた市は、四方を城壁に囲まれた空間で、民家とは別に存在していました。入口が存在し、時間では閉じるなど、ちゃんと行政の監視が入り不正が行われないようにされていたようです。
すべての商品には木製の値札を吊るすよう法律が定められ、買う人はこれを参考に、値下げ交渉などをしていました。また、市場は通りごとに、衣類や食料品、酒屋などと纏まって存在していて、値段の上下を比べるのが簡単というメリットもあります。
これらの商店と顔馴染みになると、ツケもきいたであろう事は、漢の高祖劉邦(りゅうほう)が、無名時代に地元の二軒の酒屋で、ツケで酒を飲んでいたという故事から分かり、商売のルールを守る以上は、かなり快適なショッピングが楽しめたようです。
もっとも、重い五銖銭を背負いながらですが・・
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大変、市場で強盗傷害事件が発生!!
しかし、このような市場はお金が集まるという性質上、犯罪とも無縁ではありませんでした。三国志の時代より前のキングダムの時代には、市場での強盗傷害事件の記録が残されています。
「秦王政の6年、(紀元前241年)の六月、女子の婢(下僕の事)が、秦の首都、咸陽の最里(さいり)で襲われ、銭を強奪された。婢の供述によると、盗まれたのは1200銭、(半両銭だと重さ約3キロ)市場からの帰り道に雨が降っていたので傘をさして歩いていると、後ろから突き飛ばされ、気がつくと銭が無くなっていたという。
婢が大声で泥棒!!と叫ぶと、近くに住む女子、齔(しん)が飛んできて、『大変!あなた背中にナイフが刺さっているわ』と言った。婢はそこで初めて、自分が刺された事に気がついた。
すぐに警察が呼ばれて、現場検証と婢の手当てが行われた。凶器のナイフは刃渡り20センチと大型だったが、刺された場所が急所から外れていて婢の命に別条は無かった。犯人の目撃者は、今の所、現れていない・・」
事件は、地道な聞き込み捜査の結果、市場を毎日ぶらぶらしていた不良青年の孔という男が逮捕されましたが、彼は偽装工作で事件を商人の仕業に見せかけるという小細工までしていました。市場は便利でしたが、このように危ない事件とも隣り合わせだったりもしたようです。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志の時代のショッピングは、現在のように、ただ楽しいだけでなく、持ち歩いている銭が重かったり、犯罪に巻き込まれたり、市場がかなり遠かったりと、色々な不自由があったようです。
商店街が、県の一区画ではなく、里の中にも登場するのは、唐の時代を待たないといけませんでした。今でも、まとめ買いは大型ショッピングセンターを何回も往復するなど、結構大変だったりしますが、当時の大変さに比べると、まだマシだと言えるでしょう。
本日も三国志の話題をご馳走様・・