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合肥(がっぴ)むかつく!孫権が合肥攻略にこだわる理由とは?

2016年5月23日


 

孫権

「大戦乱!!三国志バトル」コラボ特別記事

合肥城を巡る、5回に渡る攻防戦を合肥の戦いと言います。

同じ城を舞台に、10万を超える軍勢が度々激突したのは、

三国志の世界でも珍しく、それだけに、どうして孫権(そんけん)が合肥城に、

そこまで、こだわったのか不思議に思う人も多いでしょう。

そこで、はじさんでは、極く簡単に、孫権が合肥城にこだわった

理由について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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合肥(がっぴ)むかつく、孫権、4戦全敗

孫権

さて、孫権は、合肥城攻略に並々ならない執念を燃やし、

親征する事、4たび、その全てに惨敗するという恥ずかしい

結果を残しています。

 

孫権からすれば、思わず腕を上に上げつつ、折り曲げて、

腋の下を見せつつ、合肥(がっぴ)むかつく!!

叫びたい所でしょうが、そもそも、どうして孫権は、

ここまで合肥のような小さな城にこだわったのでしょうか?

 

合肥から、呉の首都 建業は直線距離150キロ!

合肥むかつく03 地図

実は、魏の拠点である合肥城から、呉の都である建業までは、

直線距離で150キロしかありません。

 

地図をご覧になると分かりますが、現在の合肥市にも、

南側に名勝地として知られる湖、巣(そう)湖があります。

ここで船団を造り、湖に浮かべると、支流を通って長江に入り

そのまま遡上すれば、南京(当時の建業)まで辿りつけます。

 

さらに、建業は長江に面している都市なので、

うまく風に乗れば、一日でついてしまう距離しかないのです。

 

これは、孫権にとっては、ガクブルものでした。

孫権の最初の合肥攻略が西暦208年になっているのも、

曹操の大船団を心底恐れていた理由によるものでしょう。

 

今度、大船団で南下されたら、どうなるか分からん

そういう恐怖感が、孫権を合肥城にこだわらせたのです。

 

 

魏のちゃぶだい返し、合肥新城!!

合肥むかつく04 満寵

 

しかし、合肥城は、魏にとっても問題の多い城でした。

建業まで水路で一直線という事は、呉にとっても、

兵士や物資を合肥城に集結させやすいという事です。

 

特に、水軍が充実している呉は、一次、二次と素早く大軍を

合肥城に集結させてきたので、魏は毎度大苦戦していました。

 

そこで、石亭の戦いで戦死した曹休(そうきゅう)に代わり、

都督揚州諸軍事に任命された満寵は、古い合肥城を破壊して、

北西三十里に、新しい合肥新城を建設します。

 

これにより、呉の水軍を活かせる優位は失われ、

魏は迎撃に時間を稼げるようになります。

 

実は、戦争では無能?4連敗の孫権の黒歴史

合肥むかつく05

 

戦争に弱い三国志の君主と言えば、魏の初代皇帝曹丕(そうひ)

典型的な口先番長で名解説する割には勝てないと

巷の三国志ファンでは評判ですが、、

孫権も、それに劣らない戦争駄目マンとして有名でした。

 

何しろ、西暦208年、第一次、合肥戦争では、

魏の蒋済(しょうさい)の流した援軍情報の虚報に騙されて退却。

215年の第二次合肥戦争では、10万対7千という圧倒的に有利な

兵力を持ちながら、張遼(ちょうりょう)李典(りてん)の逆切れ800名反撃に怯えて逃げ出し、

士気が低下、さらに疫病が流行して全軍退却。

 

第三次では、233年、満寵が合肥城を破壊して、

合肥新城を建設した所に、再び、孫権が親征しますが、

孫権はなぜか勝手に・・

 

「魏が合肥城を放棄して、内陸に新城を建設したのは、

呉の力を恐れての事に違いない、ふっ、この戦もらった!」

 

と信じ込んで、楽勝気分で兵を合肥新城に向けると、

途中で満寵の伏兵に逢い、先発隊が大損害、、

テンションガタ落ちの孫権は、退却します。

 

合肥むかつく06

 

第四次は、翌年の234年、諸葛亮孔明の北伐に合わせて、

再び、合肥を攻め、短足の癖に逃げ足中華最速の汚名返上とばかりに、

今度は頑張りますが、満寵の守りは堅く城は落ちません。

 

さらに、ここで、まさかの魏帝、曹叡が自ら大軍を率いて、

合肥を救いにゆくというニュースに、孫権は青くなり退却したのです。

 

結局、孫権は四度親征して、すべて全敗という結果でした。

こんな事なら、呂蒙や陸遜に任せればよかったのにね。

 

今回の記事は大戦乱!!三国志バトル」コラボ特別記事

 

 

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この記事を書いた人:kawauso

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■自己紹介:

どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。

もちろん、食べるのはサーモンです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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