合肥城を巡る、5回に渡る攻防戦を合肥の戦いと言います。
同じ城を舞台に、10万を超える軍勢が度々激突したのは、
三国志の世界でも珍しく、それだけに、どうして孫権(そんけん)が合肥城に、
そこまで、こだわったのか不思議に思う人も多いでしょう。
そこで、はじさんでは、極く簡単に、孫権が合肥城にこだわった
理由について解説します。
合肥(がっぴ)むかつく、孫権、4戦全敗
さて、孫権は、合肥城攻略に並々ならない執念を燃やし、
親征する事、4たび、その全てに惨敗するという恥ずかしい
結果を残しています。
孫権からすれば、思わず腕を上に上げつつ、折り曲げて、
腋の下を見せつつ、合肥(がっぴ)むかつく!!と
叫びたい所でしょうが、そもそも、どうして孫権は、
ここまで合肥のような小さな城にこだわったのでしょうか?
合肥から、呉の首都 建業は直線距離150キロ!
実は、魏の拠点である合肥城から、呉の都である建業までは、
直線距離で150キロしかありません。
地図をご覧になると分かりますが、現在の合肥市にも、
南側に名勝地として知られる湖、巣(そう)湖があります。
ここで船団を造り、湖に浮かべると、支流を通って長江に入り
そのまま遡上すれば、南京(当時の建業)まで辿りつけます。
さらに、建業は長江に面している都市なので、
うまく風に乗れば、一日でついてしまう距離しかないのです。
これは、孫権にとっては、ガクブルものでした。
孫権の最初の合肥攻略が西暦208年になっているのも、
曹操の大船団を心底恐れていた理由によるものでしょう。
今度、大船団で南下されたら、どうなるか分からん
そういう恐怖感が、孫権を合肥城にこだわらせたのです。
魏のちゃぶだい返し、合肥新城!!
しかし、合肥城は、魏にとっても問題の多い城でした。
建業まで水路で一直線という事は、呉にとっても、
兵士や物資を合肥城に集結させやすいという事です。
特に、水軍が充実している呉は、一次、二次と素早く大軍を
合肥城に集結させてきたので、魏は毎度大苦戦していました。
そこで、石亭の戦いで戦死した曹休(そうきゅう)に代わり、
都督揚州諸軍事に任命された満寵は、古い合肥城を破壊して、
北西三十里に、新しい合肥新城を建設します。
これにより、呉の水軍を活かせる優位は失われ、
魏は迎撃に時間を稼げるようになります。
実は、戦争では無能?4連敗の孫権の黒歴史
戦争に弱い三国志の君主と言えば、魏の初代皇帝曹丕(そうひ)が
典型的な口先番長で名解説する割には勝てないと
巷の三国志ファンでは評判ですが、、
孫権も、それに劣らない戦争駄目マンとして有名でした。
何しろ、西暦208年、第一次、合肥戦争では、
魏の蒋済(しょうさい)の流した援軍情報の虚報に騙されて退却。
215年の第二次合肥戦争では、10万対7千という圧倒的に有利な
兵力を持ちながら、張遼(ちょうりょう)と李典(りてん)の逆切れ800名反撃に怯えて逃げ出し、
士気が低下、さらに疫病が流行して全軍退却。
第三次では、233年、満寵が合肥城を破壊して、
合肥新城を建設した所に、再び、孫権が親征しますが、
孫権はなぜか勝手に・・
「魏が合肥城を放棄して、内陸に新城を建設したのは、
呉の力を恐れての事に違いない、ふっ、この戦もらった!」
と信じ込んで、楽勝気分で兵を合肥新城に向けると、
途中で満寵の伏兵に逢い、先発隊が大損害、、
テンションガタ落ちの孫権は、退却します。
第四次は、翌年の234年、諸葛亮孔明の北伐に合わせて、
再び、合肥を攻め、短足の癖に逃げ足中華最速の汚名返上とばかりに、
今度は頑張りますが、満寵の守りは堅く城は落ちません。
さらに、ここで、まさかの魏帝、曹叡が自ら大軍を率いて、
合肥を救いにゆくというニュースに、孫権は青くなり退却したのです。
結局、孫権は四度親征して、すべて全敗という結果でした。
こんな事なら、呂蒙や陸遜に任せればよかったのにね。
今回の記事は大戦乱!!三国志バトル」コラボ特別記事
この記事を書いた人:kawauso
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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。