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衛青(えいせい)とはどんな人?前漢時代最強を誇っていた匈奴を打ち破って漢の領土を回復させた武人

2016年5月26日


 

劉邦

 

劉邦(りゅうほう)が中華を統一した時代を前漢時代といいます。

この時代、中華にとって最大の敵は北方の異民族である匈奴でした。

匈奴は北方に割拠していた他の異民族を降し、漢に圧力をかけてきます。

劉邦も匈奴を討伐するべく兵を向けますが、敗北してしまいます。

その後歴代の漢の皇帝は匈奴と仲良くしていく方針を打ち出します。

しかし前漢の武帝は匈奴を中華から追い出すことを国の方針にします。

武帝は一人の軍人を見出したことで匈奴を長城以北に追い返すことに成功。

この時匈奴の軍勢を打ち破った将軍・衛青(えいせい)

今回紹介していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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奴隷の扱いを受ける

 

 

鄭季(ていき)は平陽侯の役人として仕えていました。

彼は一つの罪を犯します。

その罪とは平陽侯の側室と密通し、子供を産ませてしまうのです。

その子供こそ後の大将軍である衛青です。

衛青(えいせい)は幼い頃、羊飼いをさせられ、さらに周りの大人や同じ年の子供から

奴隷のような扱いを受け続けていました。

青年期を迎えても周りの大人からの扱いは変わりませんでしたが、

ある事がきっかけで彼の運命は大転換を迎える事になります。

 

姉の衛子夫が武帝に嫁ぐ

 

 

漢の皇帝である武帝は、衛青の姉である衛子夫に一目惚れし、

彼女を後宮へ向かい入れます。

彼女は武帝の寵愛を受ける事ができ、彼の子供を身ごもります。

衛青は衛子夫のおかげで奴隷のような扱いから解放され、宮殿に赴き、

武帝に仕える幸運を掴みます。

 

陳氏に監禁され、殺されそうになる

 

 

陳氏は武帝の寵愛を受けていた衛子夫に嫉妬し、衛青を拉致して監禁。

陳氏は監禁した衛青の殺害をもくろみます。

衛青の友人である公孫敖(こうそんごう)は、彼が監禁された事を知ると、

監禁されている場所を突き止め救出。

衛青は公孫敖のおかげで、死を免れる事になります。

武帝は衛子夫が子を身ごもった事を知ると、衛青を宮中顧問官に引き上げ、

自らに仕えさせます。

 

匈奴を討伐せよ

 

 

武帝は匈奴が中華に侵入している事が気に食わず、

いつか必ず匈奴を長城以北に追い返してやろうと思っておりました。

この思いを抱き続けて数年後、匈奴を討伐する軍を起こします。

武帝は衛青を車騎将軍に任命した後、彼を私室に呼び寄せます。

武帝は「衛青よ。お前を匈奴討伐の軍勢に加えてやる。

この討伐を成功させよ。」と命令されます。

衛青は「承りました。」と一言頷き、武帝の元を去ります。

 

初めての匈奴戦

 

 

衛青は一万騎を与えられ、上谷から匈奴の領地である河南地方へ出撃します。

彼は迎撃に出て来た匈奴軍を次々に打ち破り、数百名の捕虜得て帰還。

この時出撃した他の将軍達は誰も戦功を挙げる事が出来ませんでした。

その為、衛青が長安へ凱旋した時、群臣達は大いに喜び、衛青を称えます。

武帝も衛青が戦果を挙げて戻って来た時、大いに喜びます。

 

第二回匈奴戦討伐戦

 

 

衛青は初戦果を挙げた翌年、武帝から再び匈奴を討伐せよと命令を受け、

雲中(うんちゅう)から出撃するよう命じられます。

この戦いで衛青は、匈奴の二人の王を河南地方から追い出すことに成功し

河南一帯を奪い返す大戦果を挙げます。

武帝は衛青の戦果を大いに喜び、彼を長平侯に任命し、広大な領地を与えます。

 

第三回匈奴討伐戦

 

 

衛青は名実ともに、将軍として群臣から認められ、武帝からの信頼を一身に集めます。

衛青は再度武帝から匈奴討伐を任命されると、右賢王の軍勢を撃破し、

匈奴が有していた家畜を大量に捕えます。

また右賢王の側近である王族を多数捕えます。

三回の匈奴討伐戦を終えた衛青は、

将軍としての力量を群臣や他の将軍に見せつけます。

 

大将軍に出世

 

 

衛青は第三回匈奴討伐戦の戦功が武帝に認められ、大将軍へ昇進。

さらに領地を加増され、彼の息子達も侯の位を与えられます。

衛青は武帝に対して「私が匈奴の軍勢に勝利したのではなく、

陛下の御威光と他の将軍達の奮戦があったからこそ、勝利を得る事が出来たのです。

この勝利のおかげで私は陛下から領地の加増を頂くことが出来ました。

しかしわが息子達は何の戦果も挙げていないのに褒美を受ける訳にはいきません。」

と息子達が褒美を受ける事に頷きませんでした。

しかし武帝は衛青の反対意見を無視して、彼の息子達に領地を与えます。

 

匈奴討伐で武勲を挙げ続ける

 

 

 

衛青は大将軍となった後も匈奴戦で武勲を挙げ続けます。

ある匈奴討伐戦では、衛青の旗下に4人の将軍を部下に加えて出撃。

匈奴軍の兵士を数千に倒し、その後の出撃でも匈奴の兵士と家畜数万人を捕縛します。

衛青は抜群の武功を挙げ、大将軍としての地位を確立します。

匈奴は漢の大将軍衛青を恐れ、衛青が出撃していない時を狙って、

漢の領土へ侵入を繰り返します。

 

もう一人の名将

 

 

衛青が立て続けに武勲を立て大将軍の地位を確立します。

衛青の甥は、彼を羨望の目で見つめ軍人になる事を決めます。

漢の武帝は衛青の甥を可愛がり、匈奴戦に出撃させます。

衛青は武帝から「大将軍の甥に精鋭騎馬隊を与え、遊撃隊として出撃させよ」と

命令をもらいます。

衛青は甥に精鋭騎馬隊を与え、遊撃隊として出陣させます。

この甥は初陣であるにも関わらず、匈奴軍に果敢に攻撃を仕掛け、

多数の捕虜を得る大戦果を挙げます。

武帝は衛青の甥が初陣であるにも関わらず、戦果を挙げた事を喜び、

彼に侯の位を与えます。

この衛青の甥こそ、後に前漢の名将として歴史に名を刻むことになる霍去病です。

 

二人の名将

 

 

霍去病は侯の位を与えられた後も衛青と共に幾度か出陣し、

軍功を挙げて行きます。

武帝は衛青に領地を与え、霍去病には将軍の位を与えます。

その将軍名を驃騎将軍という名です。

こうして漢は衛青と霍去病二人の名将を対匈奴戦の前面に押し出し、

匈奴討伐を推し進めていきます。

 

初代・驃騎将軍の将軍に就任された事で有名人に

 

 

霍去病は初代驃騎将軍としても歴史に名を残します。

三国志を知っている方なら一度は耳にしたことがある将軍名であると思います。

三国志の最大勢力である魏では曹洪や曹真、司馬懿が任命されています。

呉では歩騭(ほしつ)や朱拠(しゅきょ)が任命。

 

馬超仲間入り

 

蜀では西涼の錦である馬超(ばちょう)や孔明に罰せられて平民に落とされてしまった李厳(りげん)

が任命されています。

三国時代以外にも晋(しん)・随(ずい)・唐(とう)などの時代でも驃騎将軍は使用されて

いる将軍位です。

 

決意を述べる

 

 

衛青は武帝から「匈奴の軍勢は大将軍が軍を率いてから、年々弱くなっていると

朕は思う。さらに霍去病が大将軍に比肩する指揮官として成長した事で匈奴は

かなり圧迫されているはずだ。

その為、来年大将軍と驃騎将軍に5万騎ずつ率いさせて出陣してもらいたい。」と

命令されます。

衛青は「分かりました。驃騎将軍と共に来年までに、

兵士達をさらなる精鋭にしたて挙げたいと思います。」と決意を述べます。

衛青は来年の出陣に備え、幕舎に帰ると兵士に激しい訓練を施し、

匈奴との決戦に備えます。

 

匈奴の領地へ進撃

 

 

衛青と霍去病は兵士を厳しく訓練し、今までにない精強さに仕上がります。

こうして年が暮れ、翌年の春に武帝から出陣命令が通達されます。

衛青は歩兵と騎兵合わせて五万。

霍去病は騎兵のみの編成で五万騎を与えらます。

こうして二人は別々の地域から、匈奴の領地へ進撃を開始します。

 

匈奴単于との決戦

 

 

衛青はキングダムの主人公李信の血族である李広(りこう)や公孫賀(こうそんが)

趙食其(ちょういき)らを率いて、匈奴の領地へ進軍を開始します。

衛青率いる軍団は匈奴の領地である砂漠の中を千里以上進んだ後、

ついに匈奴の単于である伊稚斜(いちさ)の軍勢を発見します。

衛青は歩兵を主力とした軍勢であったため、率いていた戦車をバラバラにして

本陣の防衛を固め、匈奴軍に攻撃を仕掛けます。

伊稚斜率いる匈奴軍も騎馬隊を繰り出し、衛青の軍勢に攻撃をかけます。

こうして匈奴と漢軍の激闘が始まります。

 

匈奴軍に勝利するするも、単于に逃げられる

 

 

衛青は匈奴軍と一進一退の激しい攻防戦を繰り広げます。

彼は匈奴軍をこの地で殲滅させる為、左右の軍勢を周りこませようと

試みます。

伊稚斜は漢軍が匈奴軍を包囲しようと考えている事に気付き、

漢軍の軍勢を破って、包囲から逃れます。

衛青は突如匈奴軍が崩れた事で、総攻撃を仕掛け匈奴軍を大いに破ります。

こうして勝利を得ますたが、単于に逃げられてしまいます。

彼は単于を捕えるため、追撃軍を出しますが、単于を捕縛する事は

出来ませんでした。

 

左賢王の軍勢を破って軍功を得る

 

 

霍去病は衛青が匈奴の単于と決戦を行っている頃、匈奴の地に侵入。

彼の軍勢も匈奴の地に深く進撃します。

彼の軍勢は途中で左賢王の軍勢を捕捉し、左賢王の軍を大いに破り、

大勝利を得ます。

こうして二人の将軍は匈奴軍を殲滅する事はできませんでしたが、

匈奴の兵力を大いに漸減させる事に成功します。

 

 

匈奴に勝利して凱旋するが…

 

 

 

衛青と霍去病は共に匈奴に勝利し、漢の都である長安に凱旋します。

武帝は二人が匈奴に勝って帰還した事を大いに喜び、

二人の将軍が凱旋した後、匈奴討伐に参加した将軍達を呼び、賞与の発表を行います。

まず霍去病を筆頭にして、彼に率いられた将軍達が褒美として領地をもらいます。

その後衛青や彼と共に匈奴の単于軍と戦った将軍達は、褒美をもらう事が出来ませんでした。

こうして霍去病のみが優遇され、衛青は次第に武帝から遠ざけられる事になります。

 

ただ耐え忍ぶ

 

 

武帝は詔勅によって大司馬の官位を新設します。

この時衛青と霍去病が共に大司馬に任命されます。

さらに霍去病の方が衛青より将軍の位が低いのにも関わらず、給与を一緒にするという

特別措置が取られる事になります。

この措置が取られた後、衛青を慕っていた将軍や群臣らは彼の元を去り、

霍去病についていく事になります。

このような不公平な状況に陥っても衛青は武帝に対して文句ひとつ言わず、

黙って耐え忍んでいました。

 

霍去病の突然の死

 

 

霍去病は衛青を凌ぐ名声を手に入れ、群臣や将軍達からもちやほやされる事になります。

さらに武帝からも気に入られ、彼の人気は絶頂期を迎えます。

霍去病の人気が高まれば高まるほど、大将軍衛青の名は忘れられていきます。

だが霍去病の人気はすぐに終焉を迎える事になります。

彼は突然亡くなってしまうのです。

武帝は彼が亡くなった事を大いに悲しみ、彼の為に墓を建て、

彼に景桓侯(けいかんこう)を諡として贈ります。

 

衛青の息子達が次々と国法に触れ、罪を犯す

 

 

衛青は霍去病の突然の死を大いに悲しみます。

霍去病が亡くなってから数年後、衛青の息子である衛抗(えいこう)が国法に

を犯したため、侯爵の位を剥奪されます。

また彼の息子二人も罪を犯し、侯爵の位を奪われてしまいます。

衛青は一族の者が次々と罪を犯している事を憂慮します。

 

大将軍の死

 

 

衛青は匈奴単于との決戦から14年後に亡くなります。

晩年は息子達が国法を犯し、罪を得ていた事を憂慮していたそうです。

彼の死後、彼の領地は長男である衛抗が継ぐ事になります。

また彼の旗下にいた兵士達は彼が亡くなると大いに悲しみます。

武帝も自らが引き上げて来た天才的な将軍であった衛青が亡くなった事を

悔やみ、彼に烈侯を諡として贈ります。

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

漢の国は建国当初から北方異民族である匈奴の侵攻を恐れておりました。

漢の高祖劉邦の時代には、匈奴と決戦を行うが敗れてしまいます。

その為高祖劉邦は、匈奴と屈辱的な条件で和議を結びます。

高祖以降の皇帝は、毎年欠かさず匈奴に貢物を行い、平和を贖います。

この関係はかなり長い間続きます。

武帝の時代は匈奴軍が漢の街を襲って、略奪を働いておりました。

しかし、衛青という名将が出現した事で、漢と匈奴の立場はガラリと変わります。

衛青は匈奴に積極的に攻撃を仕掛け、奪われていた河南地方の奪還に成功。

その後、幾度も匈奴に勝利を重ねた後、長城の外に追い払います。

こうして中華は再び漢の領土となります。

その後衛青の甥で霍去病が出現。

彼と衛青二人の名将の出現で匈奴は立ち直れないほどのダメージを受け、

長い間漢に攻めてくることが無くなります。

衛青が出現した事で漢の領土を取り返すことが実現したのにも関わらず、

武帝は霍去病を可愛がります。

その為衛青の輝かしい武功は影を潜め、霍去病の武功の身が目立つようになって

いきます。

私としては、霍去病が若くしてとんでもない武功を重ねた事は素晴らしい事だと

思います。

しかし衛青がいたからこそ、漢の領土を匈奴から取り返すことができたのに、

彼を遠ざけていくのはあんまりではないでしょうか。

「今回の前漢のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう

それじゃまたにゃ~。」

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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