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どうして呉は同盟国の蜀・関羽を裏切ったの?

2016年8月21日


 

赤壁の戦い

 

劉備(りゅうび)孫権(そんけん)が正式に同盟を結んだのは、

かの有名な「赤壁の戦い」のときになります。

単独で曹操(そうそう)に対することが難しいと感じた孫権が劉備と手を結んだのです。

外交交渉の場に立ったのが劉備側では諸葛亮孔明

孫権側では魯粛(ろしゅく)となります。

孫権・劉備連合軍は見事に赤壁の戦いで曹操軍を破り、曹操を敗走させます。

同盟は成功しただけでなく、大きな成果ももたらしたのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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同盟の継続

劉備と孫権同盟

 

敗走したとはいえ、曹操の勢力は孫権や劉備を圧倒するものでした。

そのため孫権は劉備との同盟を継続することになります。

孫権旗下で最も力を有していた周瑜は曹操が去った荊州を手に入れようと死闘を繰り広げます。

周瑜は荊州の江陵をめぐって曹仁と戦います。

その間、劉備は荊州の南部の都市を次々に攻略し、領地を手にするのです。

 

周瑜の描いた天下二分の計

周瑜

 

周瑜は曹操の勢力に互角に対峙するためには領地の拡大が必要だと感じていました。

その矛先は隣国の荊州と長江の上流に位置する益州に向けられていました。

孫権の勢力に荊州と益州を加えることで曹操と単独で戦える力を得ることができると考えたのです。

しかし江陵を奪った周瑜は次は益州を取ろうと長江をさかのぼりましたが、その最中に病死します。

益州を制したのは周瑜ではなく、その後の隙を突いた劉備でした。

 

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荊州を手に入れたい孫権

孫権 劉備 対立

 

益州という領地を手に入れた劉備に対して、孫権は荊州を返還するように迫ります。

赤壁の戦いの勝利はそのほとんどが孫権軍の成果であり、

荊州を支配する権利は孫権が有していると考えていました。

劉備が益州を手にしたら荊州南部を速やかに孫権に返還する旨の約定もかわしていたと云われています。

荊州南部はあくまでも劉備に一時的に貸し与えているというのが孫権側の認識だったのです。

 

関羽の武威

顔良と関羽

 

ですが荊州南部の司令官である関羽は孫権に対し、南郡や武陵を返還しようとはしませんでした。

力で手にしたものは力をもって奪えと云わんばかりに敵愾心むき出しで孫権に対します。

武名轟く関羽を恐れて孫権もなかなか手が出せず、あの手この手で懐柔しようと試みます。

しかし関羽は頑なに返還を拒み続けます。

益州にいる劉備も今度は涼州を手にしたら荊州を返還すると云い出す始末です。

 

関羽の樊城攻め

関羽 男だち

 

関羽はそんな孫権を歯牙にもかけず、荊州北部の曹操勢力である樊城や襄陽を攻めます。

その勢いは凄まじく、援軍として樊城に向った于禁は捕らえられ、龐徳は討たれました。

曹操の領土からも裏切者が相次ぎ、曹操は許都の遷都も検討したと云われています。

ここで曹操が打った一手が実に効果的なもので、

それが背後にいる孫権に関羽を襲わせるというものでした。

 

荊州を奪還するチャンス

陸遜 関羽

 

劉備はこのとき益州はおろかその北部の漢中も手に入れていました。

そのうえ荊州北部まで抑えられてしまったら孫権は勢力のうえで劉備に劣ることになります。

劉備対して不信感と焦りを感じていた孫権は曹操からの提案にのり関羽の背後を突くことを決断しました。

実行に移したのは呂蒙です。関羽は大半の兵を連れて出陣していたことと、

残した将との関係がうまくいっていなかったこともあり、

その間隙を突かれて荊州の本拠地を呂蒙に奪われます。

関羽は樊城を引き返し、麦城の城外で孫権軍に捉われ、首をはねられます。

こうして孫権の悲願であった荊州南部一帯の支配は成就されたのです。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂

 

関羽が荊州の守備を固め、呂蒙を侮ることがなければ孫権もつけ入る隙がなかったかもしれません。

関羽が樊城や襄陽を落としていたら歴史はどう変わったでしょうか。

漢中にいる劉備軍の主力は北の長安や涼州に攻め込み領土を広げていたでしょう。

孫権も合肥の曹操軍を叩き、徐州を手に入れることができたことでしょう。

曹操の領土はまさに中華の三分の一ほどになったに違いありません。

しかし孫権は目先の荊州に捉われました。

これにより曹操に逆転する目は劉備にも孫権にもなくなったのです。

そして劉備は関羽の敵討ちと荊州奪還のため主力を孫権に向けることになるのです。

 

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ろひもと理穂

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