三国志は古代中国で行われた三国の争いを記した書物です。
三国とは魏・呉・蜀の三つの国のことですが、
この争いを記した正史三国志と物語として書かれた三国志演義の違いとは
どのようなところなのでしょうか。
テストに出るかも知れないので、しっかりとポイントを押さえておきましょう。
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この記事の目次
正史三国志の作者
正史三国志と三国志演義の違いを知る前に作者を知っておきましょう。
ここはテストに出る可能性が高いのでしっかりと復習しておきましょう。
さて正史三国志の作者は陳寿(ちんじゅ)という人物です。
彼は蜀の家臣でしたが蜀が滅亡してしまいます。
そのため彼は魏の跡を継いだ晋に仕えることになり、
この国で歴史書を編纂するように命じられます。
彼は歴史書を編纂する仕事を与えられるとまず自分の国であった蜀の地方史と
丞相としてその名を各国に馳せた諸葛孔明の実績をまとめた物を作成。
これらを読んだ晋の皇帝である司馬炎(しばえん)は大いに彼の能力を認め、
魏・蜀・呉の三国の攻防を綴った歴史書を作るように命じます。
数年の歳月をかけて完成した正史三国志
陳寿は司馬炎から三国の攻防の歴史書を編纂するように命じられると早速情報集めを行います。
三国が滅んでからまだ数十年しか立っていないため、
三国の多くの遺臣達から話を聞きながら情報を集めるとともに、
各国に残っていた史書からも情報を集めます。
こうして数年の年月をかけて魏書・呉書・蜀書の三点からなる史書が完成。
これらの三書を合わせて後世三国志と呼ばれることになるのですが、
完成当時は文章の整合性が取れており読んだ人全員が彼をほめたたえます。
また陳寿と同時期に魏書の編集を行っていた人は、陳寿の三国志を読んで大いに驚嘆。
そのため自分が書いた魏書を破り捨ててしまいます。
非常に完成度の高い歴史書である「三国志」を作り上げた陳寿でした。
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余談に現在出回っているのは三国志に注訳をつけた裴松之の三国志
余談ですが覚えていて損はないので、知っておきましょう。
正史三国志は非常に歴史的価値のある史書ですが、年表や記述が非常に短く記されているため、
どのような理由で○○が起きたのかが全くわかりませんでした。
そのため裴松之はこれら簡素に書かれている3巻の書物に注訳を付けることで、
後世にわかりやすく三国志を伝えようと考えます。
こうして彼は様々な三国時代の歴史書を拝見して、
出来事に注訳をつけていくことで三国志の時代に起きた出来事をより鮮明に知ることができます。
現在皆様が知っている三国志の主な出来事は裴松之が書いた三国志・注から抽出しているものが
主なものです。
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三国志演義の作者とは
次は三国志演義を作った作者についてご紹介しましょう。
その名を羅貫中(らかんちゅう)と言います。
彼は元の中期から末期にいた人物であるとされておりますが、
一体どのような人物であったのかがほとんど記されていない謎の人物で、
名前のみしか分かっておりません。
ですが唯一彼の人柄だけが判明しており、
羅貫中と同じ時代を生きた賈仲明(かちゅうめい)という人が書いた
「録鬼簿続編(ろくきぼぞくへん)」と言われる書物で紹介しております。
賈仲明は「彼は太原出身の人で、彼が書いた物語は常に謎が隠されており、
今までにない物語で非常に新鮮な気持ちで読むことができる。
また人付き合いが苦手であったが、なぜか私とはウマが合い仲良くしていた。
しかし元が乱れたことがきっかけで彼がその後どうなったかわからなくなってしまった。」と記しております。
賈仲明の記録で出身地は太原とありますが、
ほかにも杭州(こうしゅう)の出身説や山東出身説などがありますが
どこがかれの本当の出身地であるのか確信が得られないため、
ほとんど謎の人物でありますが、
三国志演義を書いたのは事実として残っているので作者は羅貫中で間違えないであろうと思われます。
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