三国の一角である蜀は内陸国ですが、意外にも資源豊かな土地でした。特に、地面を掘削して掘り出す井塩の名産地として有名だったようです。
それは、蜀漢の時代にはすでに盛んであり、その事業は、かなり近代的な設備で行われていたのが分かってきました。
四川は井塩の名産地だった
中国では前漢の武帝の時代に、度々、匈奴に遠征した為に国庫が空になりその財源として、塩の販売を民間から取り上げて国営にしました。それは塩官という役職が管轄し、全国に三十六の製塩事業所が出来、その中で巴蜀地方は4県に事業所が配置されていた事から見ても、いかに蜀において製塩事業が盛んだったかが分かります。
井塩は掘り出すまでが一苦労・・
巴蜀地方の塩は、地面を掘削して掘り出す井塩(せいえん)という塩でした。塩が取れると言っても、井戸を掘るわけですから簡単ではありません。塩が出そうな川に近い場所で目星をつけた個所に、金属製の穿鑿(せんさく)具を突き刺していき、大体、十丈、30メートル程も懸命に掘らないと水しか出てきません。
掘り進めて地面に器具が届かなくなると穿鑿具に竹を付け足し、また掘り進め、さらに届かなくなると、また竹を付け足し、結果、穿鑿具の長さは30メートルにもなるという事です。
すんなり井塩に到達したとしても最低1カ月、遅い時には半年間かかると書かれています、それまでは、黙々と地面を穿つ作業ですから仕事をする人は面倒くさかっただろうと思います。
塩水が出てくると、櫓を組んでいく
めでたく塩水が出てくると、今度はこのポイントに櫓を組みます。そして、滑車を用意して縄を通し、二つの桶を4人の人間が交互にくみ上げるのです。
詳しくは、毎度おなじみ、はじさん特製イラストで確認して頂きたいのですが、、
この足場には必ず塩水を貯める水槽が設置されていて、水槽は一箇所に穴があいていて、そこからは竹筒が地面に向かって伸びています。この竹筒を通過して塩水は地面に降りてゆき、最後には、牢盆(ろうぼん)と呼ばれる塩炊鍋に注がれる仕組みなのです。
櫓の高低差を利用して、パイプラインを張り巡らした、蜀漢の製塩所、なかなかハイテクな感じじゃありませんか?
ビックリ、蜀漢の時代にはガス釜があった!
巴蜀は、塩以外にも天然ガスの宝庫でもありました。地面を掘ると出てくる燃える気体は、すでに前漢では知られていて、これを利用してガス釜が造られていたのです。天然ガスは酸素で燃えますから、使わない時は蓋をすれば、火は消えるので、使い勝手が良く元手も無料のエコエネルギーです。
それは製塩所でも、牢盆(ろうぼん)を沸かす釜として活用されていました。天然ガスを中国の人々は、こんな昔から産業に利用していたのです。
天然ガスと諸葛亮孔明
六朝の志怪小説、異苑には、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)と天然ガスの逸話があります。
蜀郡の臨邛には火を吹く井戸がある、漢の帝室が盛んである頃には火も盛んだったが、桓帝、霊帝の頃には火勢も次第に衰えた。しかし、諸葛亮が一度、その井戸をのぞきこむと再び火が盛んになった。景耀元年(258年)になって、ある人が蝋燭を投げ込んだら火は消えた。その年、蜀は滅ぼされた。
堂々と蜀漢滅亡の年、263年を間違えているのは御愛嬌ですが、これは、漢朝を火徳の王朝と捉え、天然ガスの火が衰えるのを漢の命運に託している話なのです。
三国志ライターkawausoの独り言
さて、遥か蜀漢の時代の製塩業のハイテクぶりを紹介しました。金属の穿鑿で30メートルも穴を掘り、櫓を組んで塩水をくみ上げ竹のパイプラインで地上まで塩水を輸送して、最後は天然ガスの釜で塩を炊き上げる、一連の工程は洗練され機能的になっていて、素朴な塩炊きではなく大がかりな産業になっています。
実際に人体に必要不可欠な塩は、どんなに高くても売れたので政府から仕事を請け負った業者は巨万の富を築いたそうです。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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