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【軍師連盟】司馬懿は遼東遠征の時なんで大虐殺をしたの?

2016年10月17日


 

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戦え于禁㈪02 董卓

 

董卓配下の武将で曹操軍の迎撃に成功したことで有名な徐栄が遼東郡の出身です。

この徐栄が董卓に対し、遼東郡の太守に推薦したのが、幼馴染の公孫度(こうそんど)です。

公孫度は父が県令に侮辱されたために一家そろって隣郡の玄菟郡に移住していました。

徐栄の推薦と董卓の実行力もあり、

やがて故郷の遼東郡の太守となった公孫度は過去の恨みを晴らすべく、

県令の公孫昭を呼び出し処刑し、一族をさげすんできた豪族・名士をことごとく誅しました。

公孫度に潰された家は百を超えたと云われています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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遼東郡太守、公孫度の誕生

公孫度

 

公孫度は恐怖で民を統括し、さらに東の高句麗や西の烏丸を軍を率いて破りました。

公孫度の武名は一躍世間に広がりました。

彼は中央政府の衰退を横目に自立の志から遼東侯を称し、侯国を建てました。

曹操からは永寧郷侯に封じられましたが、

納得せずに怒色を隠さず、受け取った印綬を武器庫にしまったと云います。

 

二代目・公孫康(こうそんこう)

公孫康

 

公孫度の息子の公孫康が跡を継いで遼東郡の太守を世襲します。

領内に逃げ込んできた袁紹の息子である袁熙、袁尚兄弟を捕らえて殺し、

その首を曹操に送り届けています。その功をもって公孫康は襄平侯に封じられています。

公孫康の死後は子供が幼かったことから弟の公孫恭が跡を継ぎました。

公孫恭は親魏派で、友好関係を結んでいましたが、

公孫康の次子である公孫淵が成人すると太守を譲るように脅迫されます。

公孫恭は政治下手であり民が不満をもっていたと伝わっています。

 

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海洋からの外交

陸遜

 

遼東郡の公孫氏に目をつけていたのは魏だけではありません。

遠く呉の国も公孫氏との外交交渉に何度も臨んでいます。

それは海を渡っての外交でした。

残念ながら当時の航海技術では風の関係で年に一度しか船は出せません。

しかし西暦232年、呉の孫権が交渉に送った将軍・周賀が話をまとめて、

遼東郡の太守となった公孫淵から使節団が送られてきます。

喜んだ孫権は公孫淵を燕王に封じました。

すぐに太常の張弥、執金吾の許晏をはじめとする400人の使節団と一万の兵を送り込みますが、

公孫淵が急に心変わりし、張弥と許晏の首を斬って魏に送りました。

魏は公孫淵を楽浪公に封じ、朝廷に上洛を求めましたが、

公孫淵はこれを拒否し、魏の毌丘倹を破り、独立して燕王を自称しました。

 

司馬懿の登場

司馬懿

 

西暦238年、四万の兵で魏は公孫淵討伐軍を編成します。

その兵を率いる大将は蜀の諸葛亮孔明と互角以上の戦いをみせた司馬懿です。

「軍師連盟」の主役である司馬懿は兵法でも超一流で、経験も豊富です。

救国の英雄として名を馳せていました。

司馬懿は相手の戦術のほとんどを見抜いていて、

遼水に防衛線を敷いて迎撃態勢の公孫淵の軍を巧みに襄平城に追い込みます。

「軍師連盟」でもこの戦いはクローズアップされるはずです。

 

司馬懿

 

公孫淵からの和睦の使者を斬り、人質を差し出す恭順も認めず、

司馬懿は公孫淵の一族をことごとく処刑しました。

さらに15歳以上の壮丁などもみな斬殺し、その数は一万を超えたと云われています。

こうして公孫淵の一族は地上から消え失せたのです。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

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魏が恐れたのは、遼東郡と呉の連携です。

司馬懿に攻め込まれた公孫淵は、裏切ったにも関わらず呉に援軍を求めます。

孫権は怒りを押し殺しながら援軍を送りました。

呉の援軍は間に合いませんでしたが、魏には脅威に映ったことに間違いはありません。

北と南からの魏への挟撃が可能になるのです。

そのため、今後の憂いを断つために公孫淵の一族はおろか、

そこに携わったものすべてを根絶やしにしたのでしょう。

果たしてこれは明帝(曹叡)の命令だったのか、司馬懿の思惑だったのか。

「軍師連盟」でも語られることでしょうが、

将来への展望からこのような冷酷無情な判断ができるのも司馬懿の特徴です。

都である洛陽に凱旋したそんな司馬懿の雄姿を見て恐れ敬った魏の臣も多かったことでしょう。

司馬懿はこの演出によって、さらに強烈なインパクトを魏の臣の心に植え付けたのです。

それはかつて曹操が仇の徐州に攻め込んで大虐殺をおこなったのとダブって見えたかもしれません。

敵には容赦しない姿勢はまさに曹操譲りです。

曹操は時にそれを感情的に行いますが、司馬懿は冷静に実行に移せるのです。

こうして司馬懿は官僚のトップに躍り出るのでした。

 

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