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漢王朝は、中国歴代王朝でも教育を重視した王朝でした。
最高学府である太学も定期的に建てられ、数千名という生徒が学んでいました。
それにならい、後漢王朝を倒した魏王朝も太学を建てるのですが、
いつからか、そこは留年を繰り返す落第生ばかりになってしまいます。
そのナルホドな理由に、時代を経ても変わらない人間の本質を感じます。
曹丕、後漢を受け継いで、太学を建設する
後漢の献帝(けんてい)から禅譲を受けた曹丕(そうひ)は、
黄初(こうしょ)年間(220~226年)に洛陽に太学を建設します。
太学(たいがく)は日本でいう所の最高学府を意味しています。
これは、後漢の戦乱で荒廃した教育施設の復旧を願う学者達の意見を
曹丕が取り入れたものであり文人として名前を為した曹丕らしい配慮です。
建学した太学には、学問に飢えていた数百人の学生が入学する事になります。
どんどん生徒の質が劣悪になる魏の太学
ところが、時代が曹丕の時代から、曹叡(そうえい)、曹芳(そうほう)に
移り変わるにつれて、魏の太学は、生徒数が激増して数千人にまでなるのに
学力は反比例して著しく低下していきます。
三国志13巻の王朗(おうろう)伝には、その当時の太学の惨状ぶりが
赤裸々に記載されています。
「黄初から、太和(たいわ)、青龍(せいりゅう)と
時代が降る中魏の内外は争乱で忙しかった。
太学の生徒は、当初の数百名から数千名にまで数は増えたが、
学生は誰も勉強せず、教師も、教える能力が皆無な
無能な連中ばかりが揃っているという有様である。
結果、生徒は何年も太学にいたまま、年ばかりを取り、
時間ばかりが虚しく過ぎていく」
王朗の文章を読むと曹丕に請願までして建設された、
当初の太学の熱気はどうなったのか?と思うような荒廃ぶりです。
生徒はおろか、先生にさえやる気がなく学力は低下するだけ
これは一体、どうした事でしょうか・・
【シミルボン】皆、戦争は嫌だった!三国志の時代の徴兵逃れ
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※本稿はシミルボンに掲載された記事をはじめての三国志用に再編集したものです