日本もある孟宗竹(もうそうちく)。この竹は筍を取る為に栽培されております。そしてこの孟宗竹と呼ばれることになったのは三国時代のある親孝行者がきっかけであったのを知っておりましたか。今回は三国時代の親孝行者である孟宗(もうそう)をご紹介しましょう。
故郷を離れて学問に身を入れる
孟宗は江夏(こうか)出身の人で、若い頃南陽の学者である李粛(りしゅく)のもとへ学問を師事するため、修行へ出かけます。彼は昼夜違わずに必死に学問を行い、師匠である李粛から「君は必ず富貴を得る人になるであろう」と高い評価を与えます。また彼は三国時代には珍しく、母親から愛されていた人物でもありました。
息子のために掛け布団を送る
孟宗の母は孟宗におっきな掛け布団を贈ります。彼女は同じ村の住民から「あんた。なんで息子にそんな大きな布団を贈るんだい」と質問されます。彼女はこの質問に対して「私の息子はあまり出来が良くないので、人気がありません。また学問を志す人は大概お金がない人が多いと聞いたことがあります。そこであのような大きな布団で学友達と一緒に寝ることで、仲良く慣れれば非常に良いじゃないですか。」と母親らしい気遣いを息子にします。そのため寒い冬になると孟宗の学友達は彼の家に集まって、大きな掛け布団を使ってすごしたそうです。
小役人として呉に仕える
孟宗は学問を修めた後、呉の小役人として将軍の雑務を行う職に就職。彼はこうして日々真面目に仕事を行っていましたが、ある時大雨が降り始めます。すると孟宗の家はボロ家であったため、雨漏りが酷かったそうです。彼は自らの家がぼろ家出会ったことで母親に迷惑をかけていると思い「こんなぼろ家に母上を済ませてしまい大変申し訳ございません。」と謝ります。すると母親は孟宗へ「仕事に邁進していればいいのです。私に気を使う必要はありません。」と孟宗が責任を感じていることを責めずに慰めます。その後孟宗は将軍から才能を認められて、養魚池の管理する役職へ異動となります。
母親のために寿司を作って送る
孟宗は呉の官営の魚を管理する仕事に就任すると、母親の為に魚を取って彼女のために寿司を作って贈ります。すると母親からすぐに返事が来て「あなたは魚を管理する役目であるのになぜ魚を取って寿司などを作っているのですか。このようなことを行えば人様から疑われますよ」と注意してきます。孟宗はこの注意を聞き入れて魚を管理する役職にいるあいだは、魚を使った料理を母親に贈ることはしませんでした。
県令に出世
孟宗は一生懸命地道に働いていくこと数年、彼は県令の職へ昇進します。しかしこの県令の職は後の法律によると自分の家族や身内を赴任先に連れて行くことができないとされていました。そのため孟宗は母親の大好物である筍を見つけるとすぐにとって彼女へ贈り、母親が食べるまで自らは筍に一切手を付けなかったそうです。県令にはもう一つ厳しい掟が有り、親族がなくなっても任地を離れてはいけないとのルールがありました。
母親が亡くなると孝行息子は・・・
母親が亡くなったと知った孟宗は呉の法律で決まっていた「県令は任地を離れるべからず」の法律を破って母親の所へ駆けつけます。こうして県令の法律を破った孟宗は葬儀が終わった後出頭して、「私は呉の法律を破りました。どんな処罰でも受けます。」と述べます。孟宗が捕まったと聞いた陸遜は彼が親孝行者であることを孫権(そんけん)に述べて処刑しないように懇願します。孫権は陸遜の提案を受け入れて孟宗を許しますが、「今回のみ特例である。次は認めない。」と陸遜(りくそん)に釘を差しております。とにかく孟宗は陸遜と孫権のおかげで命拾いをすることになり、呉の末期になると司空にまで昇進することになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
さて孟宗竹の由来ですが、孟宗の母親は筍が大好きでした。そのため冬に孟宗は母親の大好物である筍を贈ろうと考えて竹やぶに入っていきますが、筍はありませんでした。その為彼は天を仰いで嘆くと筍が生えてきたと言う逸話から筍が生える竹には「孟宗竹」と呼ばれることになります。
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—