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三国志演義の中では、万能の天才軍師、正史三国志では小国蜀を率いて、
苦悩する政治家としての側面が強い、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)。
しかし、そんな孔明には、家庭人としての一面もありました。
特に、彼の息子、諸葛瞻(しょかつ・せん)への思いは人一倍のものがあったようです。
今回は、物語では、触れられない、父、諸葛亮孔明の姿を追います。
この記事の目次
孔明の嫁、黄夫人を娶ったのは、不細工好きだからではない
孔明の妻は、色黒い醜女と評判だった黄承彦(こうしょうげん)の娘、黄月英です。
世間では、「孔明の嫁取りは見習うな」と囃されたそうですが、
決して孔明が不細工好み、岩鬼そこのけの悪球打ちだったわけではありません。
実は、黄承彦は荊州では名士で、黄承彦の妻は荊州の名族、蔡帽(さいぼう)の姉でした。
それは、黄家が、蔡家を通じて荊州牧の劉表(りゅうひょう)に
繋がっていたという事です。
孔明は、元々は琅邪郡(ろうやぐん)陽都(ようと)の人で、
荊州には戦乱を避けて逃れてきた、よそものに過ぎません。
人材登用が、ほぼコネであった当時、地元の名士と血縁関係を結ぶというのは、
将来の出世の為に絶対必要な事でした。
つまり、黄承彦は、孔明の将来を見込んだ青田買いで、娘を嫁にやり、
受けた孔明には、荊州の名士として出世したいという打算があったのです。
仲が睦まじい、孔明夫妻だが、子供に恵まれない・・
しかし、政略結婚とは言え、孔明と黄夫人の仲は睦まじいものだったようです。
ほどなく、子供が授かるかと思われましたが、どういうわけか、
二人は結婚しても長らく、子供に恵まれませんでした。
そこには、孔明が劉備の軍師として忙しい毎日を送っていた、
という理由もあるのかも知れません。
或いは、当時としては当たり前の妾(めかけ)を孔明が持っていないので、
黄夫人が懐妊しない限り、子供は生まれないという状態だった
という事かもしれないです。
弟に子がない事を心配した兄の諸葛瑾(しょかつ・きん)が養子を与える
その事を心配した、兄の諸葛瑾は、孔明の家が絶えるのを惜しんで、
次男の諸葛喬(しょかつ・きょう)を養子として送ります。
諸葛喬は、西暦204年の生まれですから、
10歳程度で養子に出されたという事かも知れません。
諸葛喬は若い頃は、霍弋(かくよく)と共に各地を旅行して見聞を広めた
とされていますから、恐らく10代で蜀に至ったのでしょう。
彼は、兄の諸葛恪に才能は及ばないものの、人格では父譲りだった、
という記録がありますから、清廉で謙虚という、孔明好みの人物と言えます。
子供のいない孔明は、この甥っ子に強い期待を掛けました。
西暦227年、諦めていた子供を授かる孔明
ところが、丞相の仕事に邁進していた孔明に吉報がもたらされます。
諦めていた男子が誕生したのです、孔明は48歳になっていました。
それが、一子の諸葛瞻(しょかつ・せん)ですが、
生母が黄夫人かどうかは分かりません。
年齢的に、黄夫人が出産したというには難しい年齢だからです。
もしかしたら、家が絶える事を心配した同僚か親族が、
妾を持つ事を勧めて、それに孔明が応じたという事かも知れません。
折しも、その年は、孔明が北伐を決行する年でもありました。
守るべき、新しい生命の誕生を見て、孔明の中には、
「我が子が成長するまでに、魏との戦いに何らかの目鼻をつけねばならない」
という気持ちが産まれたかも知れません。
息子の成長を兄への手紙で報告する親バカ孔明
西暦234年、孔明は五度目の北伐に出ます。
これが五丈原の戦いで、孔明の人生が終わりを迎える時です。
この年、一人息子の諸葛瞻は、まだ8歳でしたが、
幼いながらも聡明で孔明を喜ばせていました。
パパ孔明は、兄である諸葛瑾に手紙を書いています。
「息子は、もう八歳になりました、才気煥発なのですが、、
私は、早熟である事を恐れています。
あまりに早熟だと、大器にならないとも言いますし・・」
子供が利発である事を喜ばない親はいません、しかし、
余りに早熟だと二十過ぎればただの人という事にならないかと
孔明は、心配していたのです。
そう考えると、気が早いというか、微笑ましい、
父としての孔明の親バカぶりが伝わってきます。
この手紙に諸葛瑾は、なんと返事を書いたのでしょうか?
その事が伝わっていないのは、残念です。
【シミルボン】拝啓 我が息子瞻へ・・諸葛亮息子への手紙
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