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【シミルボン】ドキッ!全員男!三国志の時代にあった男同士のひざまくら

2016年12月10日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

ひざまくら 三国志

 

ひざまくらと言うと、大抵、男性が女性にしてもらうのが普通です。

そうでなければ、子供の頃に母親にしてもらった記憶がある人もいるでしょう。

しかし、時代と国が変われば、ひざまくらも変わるようで、中国では、

男同士のひざまくらが存在していました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



ひざまくらの古い記録、楚の霊王(れいおう)

劉邦 農民

 

男が男にする、ひざまくらは、古くは史記(しき)に登場します。

紀元前、529年、楚の霊(れいおう)は、度重なる遠征で周辺国を滅ぼして、

楚の国力を高めますが、その重税に喘いだ民衆は不満を持ちます。

 

そして、紀元前529年、霊王が都から遠征に出発すると、

霊王の弟達は、協力して反逆し霊王は都に帰れなくなります。

山中をさまよう霊王は3日3晩、飲まず食わずでしたが、

新しい楚王は、霊王を庇う者は厳罰に処すると布令を出していたので、

皆、戸を堅く閉めて霊王を入れようとしませんでした。

 

そこに、霊王の古い馴染みの鋗人(けんじん:人の名前ではなく役職)が

近くを通りかかります。

 

霊王「おお、いい所でそなたにあった、余はもう三日も飲まず喰わずで、

ろくに休んでもいない、どうか食事と休める場所をくれ」

 

鋗人「なんとかしてあげたいのですが、あなたを庇うと処罰されます。

申し訳ありませんが、力にはなれません」

 

すると、霊王は、鋗人の膝にすがりつき、そのまま横になってしまいます。

よほど、疲労していたのでしょう、そのまま寝てしまうのです。

 

鋗人は、霊王が寝入るのを待って、膝を外し、代わりに土枕を造って、

霊王の枕にし、どこかへ逃亡してしまいました。

 

さて、この故事では、原文では膝枕ではなく、股と書いてありますが、

これは、股間ではなく上腿だと考えられます。

だって、股間に頭を突っ込まれて、我慢できるわけないですし・・

 

硬骨漢、蘇則 董昭の膝枕願いを拒否!

曹丕

 

さて、三国志にも、ひざまくらの話は出てきます。

硬骨漢として知られた、蘇則(そそく)と彼にひざまくらをしようとして、

拒否された董昭(とうしょう)の逸話です。

 

西暦222年頃、董昭と蘇則は、同じく曹丕の宮廷で侍中に昇進します。

その後、董昭は、宴会か何かがあった時、酔って同僚の、

蘇則のひざを借りて横になろうとします。

 

しかし、蘇則は「わしの膝は佞臣の枕ではない!」と怒り、

これを拒否したのです。

 

どうして、蘇則は、董昭を拒否したのか?

王莽

 

さて、どうして、蘇則は、董昭のひざまくら要請を拒否したのでしょう?

理由を「わしの膝は佞臣の枕ではない!」と言っているので、

ひざまくら自体を嫌悪しているのではない事は分かります。

 

実は、董昭は、これまでに何度も仕える主を代えている変節漢で、

最初に袁紹(えんしょう)、次には献帝(けんてい)に仕え今度は

曹操(そうそう)に献帝を売り、曹操が、魏公、魏王に昇進するのを

積極的に支持しました。

 

さらに曹操の死後を継いだ、曹丕(そうひ)が皇帝になるのも、

最大限に応援して、かつての主である献帝に皇帝の位を譲るように、

何度も働きかけたのです。

 

当時は、士大夫と言えば儒者で忠臣は二君に仕えずでしたから、

董昭の行動は蘇則のような硬骨漢には、変節に見えたでしょう。

蘇則は節操のない董昭を普段から嫌っていて、

だから酔った董昭のひざまくらを拒否したのです。

 

蘇則、ヒゲが立つ程の恐怖を感じ、曹丕に弁明・・

曹丕

 

そんな蘇則は、献帝が曹丕に禅譲したと聞いて哭礼(こくれい)を行いました。

哭礼とは、嘆き悲しんでみせて、悲しみの対象を悼む行為です。

 

ただ、蘇則の場合には、曹丕が献帝に禅譲を迫って退位させた事を

悲しんだのではなく、献帝が病死したから曹丕が後漢を滅ぼしたと考えたからです。

後漢の臣であった蘇則は、その主の死に対して哭礼を行ったのでした。

 

事実は、献帝は死んでおらず、生きたまま曹丕に皇帝の位を譲ったので

蘇則の行いは、当人の想いとは違ってしまった事になります。

 

同じ頃、曹丕の弟の曹植(そうしょく)もまた哭礼を行っています。

これは後漢が終わった事を偲ぶというより、単純に曹丕が皇帝になり、

自分の時代が終わったという事を嘆いての当てつけでした。

 

曹丕は、曹植が哭礼を行ったと聴いて不愉快になり、

以来は、特に曹植に辛く当たるようになります。

 

曹丕は根に持つ性格でした、洛陽に居た時にも、それを思い出し

側近たちの前でつぶやきました。

 

曹丕「世の人は、皆同じ心ではないものだなぁ・・

朕は天命により禅譲を受けたのに、それを聴いて泣いたものがいる」

 

これは、弟、曹植の事を言っているのですが、曹丕が自分の事を批難していると

勘違いした蘇則は、髯がピンと直立する程に恐怖しました。

 

そこで、弁明しようと、馬を下りて曹丕に声をかけようとしますが、

その様子を察した、隣の傅巽(ふせん)が蘇則にアイコンタクトします。

 

傅巽「違う、お主の事ではない、早合点するな・・」

 

曹丕は蘇則が、禅譲の時に哭礼をしていた事までは、知らなかったようです。

傅巽ナイスプレイです、ここで、蘇則が弁明していたら、どうなった事か・・

 

シミルボン

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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