洛陽に駐屯していた後漢王朝の皇帝である劉協(りゅうきょう)を迎えたことがきっかけで、
自らの勢力に重みを付けることができます。
しかし曹操は偶然皇帝を迎えることができたわけではなく、
ある人のおかげで皇帝との接点ができ、
洛陽で困窮していた皇帝を向かいれることができたのです。
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河内の張楊仕える
河内の張楊(ちょうよう)の元に一人の人物がやってきます。
その人物の名は董昭(とうしょう)と言いました。
彼は後漢王朝の皇帝である劉協の元へ向かっている途中でしたが、
河内の張楊に引き止められたことがきっかけで彼に仕えることになります。
曹操からの使者がやってくる
張楊が割拠している河内の地は劉協がいる長安の都の近くの土地でした。
曹操は張楊のいる河内を通って皇帝に使者を送りたいと考え、
張楊へ「私の使者が君の土地を通行させて頂くことになりますがよろしいでしょうか。」と
お願いします。
しかし張楊は曹操に領内を通行させたくないと考えていたので、
曹操からのお願いを断ろうと考えておりました。
しかしと董昭の進言によって考えを変えて曹操の使者に領内の通行をOKすることにします。
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董昭の進言とは
董昭は張楊の元へ
「曹操は現状袁紹よりも弱っちいとは言え、彼の才能は袁紹よりもずっと優れており、
必ず天下の争乱を鎮める英雄となるでしょう。
殿におかれましては彼の使者が領内を通行する事を認め、
曹操を皇帝陛下へ推挙することでかれとの絆を深めることが出来るのは、
殿にとって必ず大きな利益となるでしょう。」と進言。
この進言を聞いて張楊は曹操の使者が領内を通行する事を認めると共に、
皇帝へ使者を送って曹操を推挙。
董昭は曹操の使者が長安を牛耳っている李傕(りかく)や郭汜(かくし)らの権力者達に
妨害されないように使者を送って「曹操の使者をよろしく頼みます」とお願いします。
この結果、曹操の使者は長安へ使者を送ることが可能となり、
皇帝と親密な関係を築いていくことになります。
皇帝保護軍はバラバラ
彼は楊奉(ようほう)、董承(とうしょう)、張楊らの軍勢に守られて、
なんとか洛陽にたどり着くことができました。
しかし彼らは李傕らの追撃軍との戦闘では協力して戦うことができましたが、
彼らが居なくなると協力することができずに対立してしまいます。
董昭は楊奉へあることを手紙で伝えると彼は中心となって動き出します。
曹操のフリをして手紙を送る
董昭は曹操のフリをして手紙を楊奉へ送ります。
手紙の内容は「今あなた様は皇帝陛下を助けた勲功は計り知れないでしょう。
しかしあなた様の軍勢は兵は強くても兵糧がないと聞き及んでおります。
そこで私が兵糧をあなた様に供給し、
あなた様が兵を率いて皇帝陛下をお守りすれば、
賊徒から陛下をお守りすることができるのではないのでしょうか。」との内容でした。
この手紙を見た楊奉は大いに喜び曹操が忠誠心ある人物であることを劉協へ上奏。
劉協は楊奉の上奏を受け入れて曹操に鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の位と
侯の位をさずけることにします。
曹操へ進言をしたことで・・・・。
曹操は洛陽で劉協と謁見した後、董昭と今後のことについて話し合います。
董昭は曹操へ「楊奉は勇猛果敢で兵力も精強です。
しかし曹操様が楊奉へ贈り物を送って優遇してから彼に
「洛陽には兵糧もなく復興もできていない。
そこで違う都市へ一時的に移っていただきたいとおもうのだがどうであろうか。」
と相談すれば、彼は承諾してくれるでしょう」と
アドバイスを与えます。
曹操は董昭のアドバイスを受けて楊奉を手厚く優遇してから董昭の通り楊奉へ提案。
楊奉は曹操をすっかり信頼していたので、彼の提案に反対することなく承諾します。
三国志ライター黒田レンの独り言
こうして曹操は楊奉らから劉協を奪い取ることに成功し許へ連れて帰ることになり、
他の群雄よりも一歩抜きん出た存在へ成長することになります。
もし董昭がうまく楊奉を扱っていなければ曹操と楊奉達との間で戦が起こってしまい、
劉協はその間にどこかへ逃亡し、曹操以外の群雄に取られていたかもしれません。
そうすると董昭の功績は計り知れないほど大きなものであると思いませんか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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