秀吉の両兵衛と言われる竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と黒田官兵衛(くろだかんべえよしたか)。二人は非常に優秀な軍師で竹中半兵衛は秀吉の前半生を支え、黒田官兵衛は秀吉の天下取りまでを支えた軍師として知られておりますが、このふたりは一体どちらが優秀なのでしょうか。
気になる方もいると思いますので今回は比べてみたいと思います。
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半兵衛と官兵衛一体どっちが凄いの自慢その1:半兵衛の稲葉山城乗っ取り
半兵衛は秀吉に仕える前は美濃の斎藤家に仕えておりました。彼は斎藤家の当主斎藤龍興(さいとうたつおき)の側近衆からいじめを受けておりました。半兵衛は稲葉山城から帰還して稲葉山城の城門をくぐり抜けて帰ると空は晴れているのに上から水が降ってきます。
彼は上を見上げると龍興の側近衆が稲葉山城の城門から半兵衛めがけて小便をかけているのです。半兵衛はさすがにブチ切れそうになりますが、グッと堪えて家に帰ってから一人で復讐を行うべく作戦を練り始めます。
そして彼はある作戦を思いつき、稲葉山城で人質としている弟である久作に対して手紙を送ります。半兵衛の手紙を見た久作は翌日から病にかかってしまいます。
ここから半兵衛の作戦は始動することになります。彼は何回か大きなカゴを担がせて稲葉山城jへ登城しなくてはならないと考えます。そして彼はカゴを登城するたびに中身を見せて何にも入っていないことを門番に示します。
門番も半兵衛が幾度も中身を見せてくれるのでしっかり信用してしまい、半兵衛が連れているカゴを確認することを怠ってしまいます。その日に限って半兵衛はカゴの中に武器と鎧を入れていたのです。
このカゴは弟久作の屋敷に直行するとそこで待っていた竹中家の武士18人に鎧を着させて武器を取らせると早速稲葉山城への本丸に向かっていきます。途中で妨害してきたものたちを切り捨てながら斎藤龍興を稲葉山城から追い出してしまいます。こうして半兵衛はたった18人で稲葉山城を陥落させることに成功することになります。当時の戦国武将や大名でたった18人で堅城を陥落させた人物はいないでしょう。まさに半兵衛の知略が冴え渡った出来事でしょう。
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半兵衛と官兵衛一体どっちが凄いの自慢その2:一万人ほどで九州を席巻
官兵衛は秀吉の死後石田三成と徳川家康が天下の覇権をかけて争っていました。当時官兵衛は九州に領土を持っており天下の覇権がどちらに渡ることになるのか情報収集を行うと同時にいつことが起きてもいいように募兵をして戦力を整えておりました。
官兵衛は情報収集の結果、徳川家が勝つと判断。そして彼は家康に味方することを言明するのと同時に息子長政にも徳川家に味方するようにと申し伝えます。このような手当を行った後、大友家の残党が挙兵して細川家の城へ攻撃を仕掛け、救援依頼を受けます。
彼は大友軍を九州撃退するために軍勢を二つに分けて一方は細川家の救援軍として、もう一方は官兵衛自ら率いて九州の諸城を攻略していくことにします。この結果官兵衛率いる本隊はバシバシ城を攻略していき、別働隊も大友軍を蹴散らすことに成功。その後も官兵衛は立花家の柳川城(やながわじょう)を降伏させ、鍋島家を味方につけて、肥後(ひご)で戦っていた加藤清正の軍勢を合流させて行きます。これら九州のほとんどを制圧することに要した期間はたった数ヶ月だと言われております。
ついでに島津家が九州全土を席巻するのに要した期間は10年ほどと言われております。上記を比較してみて頂ければ官兵衛の凄さが分かるのではないのでしょうか。
※島津家が九州統一戦を行った時期については色々な説があると思いますが、ここでは大友宗麟の軍勢を破った耳川の勝利の後から起算しております。
戦国史ライター黒田廉の独り言
結局半兵衛と官兵衛はどっちがすごいの。さて半兵衛と官兵衛のスゴさをわかってもらえたのではないかと思いますが、実際どっちがすごいのでしょうか。
私としては両方ともすごいと思いますので選ぶことはできないです。しかしどうしても選ばなくてはならないのであれば私は黒田官兵衛を選びます。理由としてはやはり関ヶ原の戦いの時にたった数ヶ月で九州地方の大半を席巻した軍略は誰も真似できないだろうというのが理由です。
皆さんは甲乙つけがたい天才軍師ふたりのどちらを選べって言われたらどちらを選びますか。
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