キングダムの時代は中国古代史の戦国時代の末期の時代です。
今回はその前の時代である春秋時代をご紹介したいと思います。
この時代には春秋の五覇(しゅんじゅうのごは)と言われる名君たちがおりました。
春秋の五覇の仕事は国同士の紛争解決や中国内部に点在している異民族迎撃などを
周王に代わって行うのが主な仕事でした。
春秋五覇のひとりである斉の桓公(かんこう)は名宰相と言われ、
諸葛孔明も尊敬していた管仲(かんちゅう)が亡くなった後、
諸侯を代表している君主とは思えない振る舞いを行い国を乱れさせてしまいます。
なぜ彼は管仲が充実させた国を乱してしまったのでしょうか。
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管仲の遺言
斉の桓公は宰相・管仲と一緒に斉の国を成長させてきました。
そのおかげで斉の国は大きく成長することに成功し、
桓公は諸侯のまとめ役である春秋の五覇と呼ばれるようになります。
しかし名宰相であった管仲が病にかかって倒れてしまい、
その後危篤状態になってしまいます。
そこで桓公は管仲を見舞いに行くついでに、
彼に斉の国を取り仕切る宰相の位に誰を指名すればいいのかを聴きに行きます。
桓公は管仲の屋敷に到着し、彼と色々な思い出話や世間話をした後に本題へ入ります。
彼は管仲へ「君がもしなくなってしまったら宰相を誰にすればいいかな」と聞きます。
すると管仲は「私の後の宰相は誰が一番適任であるかわかっているのではないのですか。」と
述べます。
管仲の言葉を聞いた桓公は頷くと三人の名前をあげますが、全員管仲に反対されてしまいます。
桓公はショックを受けて宮殿に帰ってしまいますが、管仲が亡くなった後、彼の忠告を聞かないで、
管仲の屋敷で上げた三人を重宝していってしまうのです。
ついでに管仲の屋敷で上げた三人の名前は料理人・易牙(えきが)、
元・衛(えい)国の公子・開方(かいほう)、そして宦官の豎刁(じゅちょう)です。
自分の後継を変えてしまう
桓公は自分が年老いていることを自覚し始める時期に差しかかります。
彼は生前の管仲と二人で後継者を決めておりましたが、桓公に重宝されていた料理人・易牙が
宦官である豎刁と結託して桓公へ後継者を変えてしまうよう進言。
この進言を聞き入れた桓公は管仲と一緒に決めていた後継者・昭を廃して、
無詭(むき)を後継者に指名してしまいます。
このことが斉の国を大きく乱すきっかけとなることを桓公は知りませんでした。
桓公死すそして・・・・
桓公が病にかかってなくなってしまいます。
すると桓公の側室から生まれた公子達は派閥を作って桓公の後継者をめぐって戦いを開始。
そのため国内は大き荒れてしまい、桓公の葬式を挙げることができない状態でした。
こうして斉の国内で桓公の後継を巡って熾烈な戦いが行われ、
その結果無詭が桓公の跡を次ぐことになります。
しかし彼は公子昭の後見人となっていた宋の襄公(じょうこう)が
公子昭を担いで斉へ攻撃を仕掛けてきます。
この時に桓公の跡を継いだ無詭が殺害されてしまいます。
そして無詭を殺害した他の公子達が力を合わせて宋軍と戦う事になるのですが、
宋の襄公は諸侯の兵を率いており、斉一国の軍力じゃ到底叶う人数ではあありませんでしたが、
公子達は諸侯連合の軍勢を幾度か追い払っております。
しかし結果は諸侯連合軍に敗北してしまうことになります。
そして斉の君主には宋の襄公に担がれた公子昭が君主となって君臨し、
彼が斉の君主となった時にやっと桓公の葬式が行われたそうです。
春秋戦国史ライター黒田廉の独り言
桓公は管仲の補佐があって名君として輝くことができ、
管仲亡き後の彼は無用な争いの種を次世代へ残していっただけではないのでしょうか。
もし管仲がいなければ彼は歴史に名前を留めることができなかったかもしれません。
そして桓公の最後は葬式すら行われない非常に残念な最後と言えるのではないのでしょうか。
参考文献 司馬遷「史記」 市川宏・杉本達夫訳など
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