秦が天下統一することができたのは秦王政の果断な決断と他国を圧する
国力・人材を持っていたことが原因であると黒田廉は考えます。
上記は秦国内において秦が統一できた理由ですが、外部的要因は一体何なのでしょうか。
色々あると思いますが、一つ挙げるとするならば黒田廉は東方の大国であった斉が沈黙していた
ことが要因に挙げられるのではないかと思います。
この斉の国は田氏が王として君臨している国ですが、元々は羌族(きょうぞく)が建国した国でした。
今回は斉の国はいったい誰が建国したのかをご紹介したいと思います。
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斉は羌族が打ち立てた国
羌族。
この民族は古代中華で異民族に入る部類で、
三国志の時代には蜀地方に住んでいる部族です。
蜀の五虎将軍のひとりである馬超(ばちょう)がこの羌族と仲が良かったそうで、
彼が一声かければ多くの民族が彼の元に結集し、
蜀軍は幾度も助けられることになる異民族です。
さて斉の国を建国したのは羌族の中のある有名な人物が周王朝の時代に斉を建国することを
許されたことがきっかけで誕生した国です。
その有名な人物とは釣りが大好きな人でした。
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大軍師呂尚の活躍がきっかけ
羌族出身の呂尚(りょしょう)は羌族出身の人物でした。
しかし呂尚が属していた羌族は戦うことが苦手で、
部内で争いが勃発した際に戦嫌いの羌族は部内を離れて西方や東方へ逃亡。
この時呂尚も西方へ部族と共に逃亡しております。
そして当時西方の地の有力者であった西伯侯(せいはくこう)とであったことがきっかけで
彼の人生は大きく変化することになります。
西伯昌と呂尚が出会ったのは釣りがきっかけだったそうで、
西伯昌と呂尚はたがいに意気投合したことで西伯侯が呂尚を自らの車に乗せて、
その後本境地へ連れて行き軍師として迎え入れます。
こうして呂尚を手に入れた西伯侯は彼の進言を採用していったことで大きく飛躍することになり、
西伯昌の死後息子である発が跡を継ぎます。
彼は暴君である紂王(ちゅうおう)を討伐するため呂尚と共に大決戦を計画。
そして呂尚の進言によってついに暴君・紂王を倒して殷王朝を討伐。
殷を倒した武王は周を建国します。
武王は呂尚の軍功を褒めたたえて、彼を東方の営丘(えいきゅう)という土地に領土を与えます。
これがきっかけで斉は誕生することになります。
斉の初代君主であり、斉建国の立役者は太公望・呂尚です。
この呂尚が斉へ赴くときにエピソードが残っているのでご紹介します。
時は得難くして失しやすし
呂尚は武王から斉の国に領土を与えられます。
彼は馬車に乗って悠々と斉の国へ向かっていき、色々なところで宿泊をしながら向かっていきます。
彼はある宿に泊まった際、この宿の主人から厳しいアドバイスをもらいます。
宿の主人は呂尚へ「お客人。あなたは国をもらって向かう途中なのに、
こんなにゆっくりでいいのですか。『時は得難くして失しやすし』といいますぞ」と
アドバイスを受けます。
この言葉を聞いた呂尚は急いで宿を飛び出して斉へ向かって驀進していきます。
このアドバイスをもらった時、斉へ異民族が大軍を率いて攻撃を行うために進軍中でした。
呂尚が攻撃軍より早く着いたことによってなんとか斉の首都であった営丘を死守することができ、
斉の国は守られることになります。
宿屋の主人からのアドバイスがなければ斉の国は誕生した瞬間に滅亡したかもしれませんね。
戦国史ライター黒田廉の独り言
太公望呂尚が建国した斉はその後名君と言われる桓公と管仲の名コンビによって、
中原一体を収める覇者へと成長することになるのですが、
この名コンビ以降斉の国力は徐々に弱っていくことになり、田氏が台頭してくることになります。
そして田氏が斉の国の実質的に運営していた事と羌氏の後継が途絶えたことを契機として、
田氏が斉の国主に就任することになります。
こうして田氏が新しい斉国を誕生させることになり、
秦の天下統一まで田氏の血脈が続いていくことになります。
参考文献 中公新書 孟嘗君と戦国時代 宮城谷昌光著など
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