敵方を滅ぼすのは三国志でも日本の戦国時代でも変わりません。生かしておいては復讐される恐れがあるからです。今回は関ヶ原の戦いで天下の覇権を握ることに成功した徳川家が豊臣家を滅ぼすことになった原因をご紹介したいと思います。
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この記事の目次
家康はなんで豊臣家を滅ぼそうとしたのその1:豊臣家が意外と衰退しないのが原因!?
天下の覇権をかけた戦いであった関ヶ原の戦い。この戦いはみなさんも知っているとおり徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原の地で日本の戦国時代に残る死傷者を出す大激戦を繰り広げます。
この戦いの結果石田三成は敗北し、徳川家康が勝利で収めることになります。そして徳川家康は豊臣側に味方した西軍諸将を改易したりして、豊臣方の勢力を弱体化していくことに努めていくのですが、意外にも豊臣家の勢力は弱体化していきませんでした。
そのため家康は、このままでは日本が西と東に別れたままである現状では徳川にとってまずいと考え、秀頼討伐を決意したのではないかと考えます。
家康はなんで豊臣家を滅ぼそうとしたのその2:豊臣恩顧の大名が豊臣に味方している現状
家康は秀頼が元服を終えた後、大阪城へ使者を送り「秀頼殿と一度会見したいのだがいかがでしょうか」と伝えます。この徳川家の申し入れに対して豊臣家では非常に議論が行われますが、結果的には秀頼は大阪城を出て徳川家康に会いに二条城(にじょうじょう)にまで趣いています。そしてこの地にで会見したことがきっかけで秀頼討伐を家康は考えます。
秀頼の姿を見た家康が秀頼を討伐しなければやばいと感じたことが豊臣討伐の原因ではありません。家康がこの会見で感じたのは福島正則(ふくしままさのり)・加藤清正(かとうきよまさ)らが未だに秀頼へ忠義を尽くしている状態を見てとったことが原因で豊臣家は討伐されることになるのです。
それはなぜか秀頼に忠義を尽くす大名が西側ではいることを表しており、このふたりは秀吉恩顧の大名ですが、もし家康によって領土を削られた諸大名を結束させたり、家康の罪を弾劾して再び西日本の諸大名を結束させるようなことが起きた場合、家康存命中にそれらを討伐することができないかもしれません。
このことを考えると家康は豊臣家を今のうちに滅ぼしたほうが得策であろうと考えて動き出します。
家康はなんで豊臣を滅ぼそうと考えたのその3:秀忠では頼りないから
徳川家康は幕府を開いてからすぐに後継者と決めている秀忠に将軍職を譲っております。この秀忠ですが関ヶ原の戦いの時に真田家の上田城へ攻撃を仕掛けたことがきっかけで、秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅刻するという大失態を犯しており、家康も激怒して秀忠を怒鳴りつけております。
このように軍事的才能が全くない秀忠が家康後死後、豊臣秀頼と対決した場合果たして勝つことが出来るのであろうか。そのため家康は秀忠の時代には豊臣の家を滅ぼしておかねばならないと考えており、自分がなくなる前に秀頼率いる豊臣家を滅ぼすためにかなり強引な因縁をつけて豊臣家へ喧嘩をふっかけております。
戦国史ライター黒田廉の独り言
徳川家康が本当はどのような理由が原因で豊臣家を滅ぼしたのかは未だに研究中でわかっていません。また家康は実は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったんじゃないかという説もあります。その根拠となっているのは千姫の存在です。
彼女は徳川秀忠の娘で、秀吉の遺言で「秀頼へ嫁を嫁がせてくだされ」と言われて嫁がせております。もし家康が本気で豊臣家の存在を地上から消し去りたいと考えているのであれば、秀吉の遺言を守ってやる必要はないように思えます。
この点を考えると家康は果たしてどの時点で豊臣滅亡を考えていたのか確定していないのことがうなずけるのではないのでしょうか。
参考文献 豊臣秀頼 福田千鶴著など
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