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【実録】今川義元にいじめられ続けた井伊家と松平家

2017年1月29日


 

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おんな城主01 直虎

 

2017年のNHK大河ドラマは、女城主直虎(なおとら)です。

1月8日のスタートから、子役陣の好演もあり視聴率は中々高いようですが同時に、

あまりにマイナーな戦国武将の話だけに事態の変化についていけない人も多いでしょう。

なぜ?井伊家は今川義元にいじめられるのか?どうして過酷な状況に置かれるのか?

その辺りを分かりやすく、松平家との関係も絡めて解説します。

 

前回記事:【おんな城主 直虎を見逃した方必見】第一話「井伊谷の少女」の見どころ紹介

関連記事:こっそりお教えします!NHK大河ドラマの通な見方。歴代大河ドラマも徹底紹介!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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井伊家はどうして井伊谷(いいのや)にいるのか?

キングダムと三国志

 

井伊家の祖は鎌倉時代末期には、井伊谷に土着していました。

その名を井伊道政(いい・なおまさ)と言い遠江介(とうとおみのかみ)の

官位をもらい井伊介(いいのすけ)と名乗ります。

 

西暦1333年、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は後醍醐(ごだいご)天皇方に付いた

御家人、足利尊氏(あしかが・たかうじ)や新田義貞(にった・よしさだ)の

謀反で滅び去り後醍醐天皇の建武(けんむ)の新政(しんせい)が実現します。

 

しかし、後醍醐天皇は、大化の改新の時代のような天皇による政治を目指し、

武士の勢力を抑えたので鎌倉幕府の打倒に功積があった武士への恩賞は少なく、

反対に戦いには無関係な公家衆が多くの恩賞を受けていきます。

 

こうして、建武の新政に不満を持った武士達は足利尊氏の周辺に集まります。

尊氏はついに幕府を開いて後醍醐天皇に叛き後醍醐天皇方と戦争が始まり、

建武の新政は、僅かに3年で崩壊してしまいます。

後醍醐天皇は京都を去り、吉野に逃れて味方を集め尊氏に対抗します。

 

足利尊氏は朝敵(ちょうてき:天皇に叛く者)となるのを避ける為に、

自らも光厳上皇(こうごん・じょうこう)を後ろ盾に光明(こうみょう)天皇を

即位させて後醍醐天皇に対抗します。

こうして天皇が同時代に二人存在する南北朝時代が始まるのです。

 

さて、南北朝の争乱が起きると、井伊道政は南朝方に味方して

比叡山延暦寺の座主である宗良親(むねなが・しんのう)の元に馳せ参じます。

そして、宗良親王を井伊城に招いて根拠地として提供したのです。

 

北朝方の今川氏に支配され、不遇の時代が・・

 

ところが、道政の判断は凶と出ました、井伊城は北朝方の、

高師泰(こうの・もろやす)、仁木義長(にきよしなが)によって

攻め込まれて落城してしまいます。

 

また、伊井氏は駿河(するが)の守護大名である北朝方の今川氏と

対立していましたが、運の悪い事に今川氏が遠江守護になってしまいます。

当初、今川氏は遠江半分の守護でしたが、何度か合戦を繰り返して勢力を伸ばし

今川義元の父の今川氏親(うじちか)の代には正式な遠江守護であった

斯波(しば)氏の勢力を追放し、井伊氏を支配下に組み込むのです。

 

元々、敵対していた井伊氏に対する今川氏の対応が

穏当なもので無かったのは言うまでもありません。

 

やがて今川義元が今川氏を継ぐと、戦国の内乱に乗じて、駿河、遠江、

三河までにも勢力を伸ばし、対立していた甲斐の武田氏、

相模の北条氏とも同盟を結んで強大化します。

 

こうして国外に憂いの無くなった義元は、領国内の国人衆に妥協せず

支配者として冷酷に当たるようになります。

亀之丞(かめのじょう)の父の井伊直満(なおみつ)が謀反の讒言だけで

簡単に自害させられたのは、このような時期だったのです。

 

その後も続く、今川氏による過酷な取り扱い

 

その後も、井伊氏は当主の井伊直盛(なおもり)が今川義元の上洛に従い、

桶狭間(おけはざま)の戦いに従軍して戦死、後を継いだ井伊直親(亀之丞)も

重臣小野道好(おの・みちよし)の讒言にあい、今川氏真(うじざね)の不信を受けます。

申し開きの為に直親が駿府(すんぷ)に向かう途中、気が変わった氏真の命を受けた

今川氏の重臣、朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)に斬殺されました。

 

残っていた長老格の井伊直平(なおひら)や中野直由(なかの・なおよし)も

今川氏の手伝い戦の途中で、病死・戦死するなど辛酸をなめます。

こうして、1565年、井伊家は当主が不在となり尼になっていた次郎法師が

還俗して井伊直虎と名乗り、井伊家の当主となる事態になりました。

 

まさに井伊氏に取って今川氏は疫病神以外の何物でもなかったのです。

 

三河の混乱に乗じて勢力を伸ばした松平氏

 

天下人、徳川家康(とくがわいえやす)の出身母体である

三河松平(みかわ・まつだいら)氏は、室町幕府の政所(まんどころ)の執事、

伊勢貞親(いせ・さだちか)の部下である松平信光(まつだいら・のぶみつ)が

混乱に乗じて、三河に降りてくる所から始まります。

 

元々、三河守護は一色(いっしき)氏でしたが、その勢力を恐れた室町幕府6代将軍、

足利義教(あしかがよしのり)が刺客を放って一色義貫(いっしき・よしつら)を

殺害し、代わりに細川持常(ほそかわ・もちつね)を三河守護にします。

 

この強引な措置に三河の国人衆(地侍)が猛反発して軋轢が発生、

大混乱の中で、松平信光が三河に勢力を伸ばしました。

 

応仁の乱の時期に、三河守護の地位を取り戻そうとした一色氏を

三河守護、細川成之(ほそかわ・しげゆき)と共に撃破した松平信光は

岩津から南下していき、岡崎城、安祥(あんじょう)城を勢力下においていきます。

 

信光は80歳を過ぎるまで生きており、同時に48名の子沢山で、

それらの息子達を各地に派遣して三河における松平氏の覇権を確立します。

 

信光の子の中で、碧海(へきかい)郡の安祥城を拠点にした安祥松平家初代の三男、

松平親忠(おやただ)が一門の中でも勢力を伸ばし、子の松平長親(ながちか)は

三河に侵攻してきた北条早雲(ほうじょう・そううん)を撃破して名を挙げ、

混乱の中で滅亡した本家の岩津(いわつ)松平家に代わり、三河松平一門の

宗家の地位を確立し戦国大名化していきます。

 

英雄、松平清康が三河統一寸前まで行くが・・

 

岩津松平氏に代わり松平一門を率いる形になった安祥松平家ですが、

長親の子の松平信忠(のぶただ)は、松平氏の内紛を纏める事が出来ず、

父の長親に隠居させられ、代わりに息子の清康(きよやす)が13歳で家督を継ぎます。

 

この松平清康は、歴代の松平氏でも抜群の英明さを誇り、反目する岡崎松平家の

山中城を攻略、さらに、明大寺城、岡崎城を奪取して本拠を岡崎城に移します。

 

岡崎では、城下町形成や岡崎五人衆、代官、小代官体制等の整備を行い、

戦国大名としての松平氏を発展させていきました。

さらに、清康は加茂(かも)郡、渥美(あつみ)郡の諸豪族を攻めて

西三河のみならず、北三河、東三河まで服属させ三河の統一を進めます。

 

ところが、1535年、西に転戦して美濃の斎藤道三(さいとう・どうさん)と

連携して尾張の織田信秀(おだのぶひで)を挟撃しようと守山城を攻めていた時、

清康に遺恨がある家臣の阿部弥七郎(あべ・やしちろう)に背後から

斬りつけられて即死します。

 

享年25歳の惜しまれる最期でした。

 

後継者の松平広忠は10歳、、松平氏は今川氏の庇護を受ける

 

清康が死んだ時、後継者の松平広忠(ひろただ)は、僅か10歳でした。

それに乗じて、桜井松平氏の松平信定(のぶさだ)が岡崎城を占拠します。

追放された形の松平広忠は、当時、勢力を伸ばしていた今川義元と会見し、

その後ろ盾を受ける形で岡崎城を取り戻しました。

 

しかし、あの不気味な義元が善意で広忠を助けるわけもなく、

三河松平氏は今川氏の支配下に置かれ衛星国に過ぎなくなります。

義元は、三河に勢力を伸ばしてくる織田信秀に対する防波堤として松平氏を使い

広忠の子の竹千代(たけちよ)は、最初、織田信秀の人質だったのが

戻ってくると今度は今川氏の人質になりました。

 

この竹千代こそ後の天下人、徳川家康ですが、今川氏の人質として

不遇と忍耐の毎日を送る事になります。

広忠は、1549年に死去しますが、竹千代は岡崎城に帰還できず、

城は、今川氏の代官である朝比奈(あさひな)氏、山田氏により支配されて、

三河松平の家臣は過酷な搾取状態に置かれます。

 

ですが、逆に今川氏の直接支配を受けたせいで勢力争いをしていた

松平氏の結束は固まり家康の帰還で、一気に戦国大名に返り咲く

下地が出来たとも言えます。

 

桶狭間の合戦を契機に松平氏は独立する

 

1560年、松平元康(もとやす)と名乗っていた18歳の家康は上洛する今川義元の

先鋒として織田領に侵攻しますが、途中、桶狭間における義元の戦死を知ります。

混乱を松平氏復活のチャンスと見た家康は今川氏が放棄した岡崎城に入り

譜代の家臣団を纏め、翌年4月には、今川氏の拠点の牛久保城を攻撃しました。

 

義元の後を継いだ今川氏真は、これを知って元康を「恩知らず」と罵り

悔しがりますが、頼みにしていた武田と北条の援軍は上杉謙信の小田原出兵に

対応していた為に来ず、氏真は三河を攻める事が出来ませんでした。

 

これにより家康は、充分な時間的な余裕を得て織田家と同盟を結び、

完全な独立を果たしたのです。

 

大河ドラマウォッチャーkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

井伊氏と松平氏は、今川氏の勢力下に入った時期は違いますが、

いずれも今川義元が君臨している時期に、特別に酷い目に

遭わされているのは共通していると言えます。

 

井伊家は、駿河に近い分、桶狭間以降も今川氏から離脱出来ず、

手伝い戦で松平氏とも交戦し、中野直由などの重臣も戦死するなど

弱小国人衆としての苦労を味わっています。

 

後に、徳川家康が勢力を遠江に伸ばすと井伊家は家康に従い、

それにより今川の影響力から離脱できるようになります。

両者とも、虐げられる苦しみを知っている分は親和性があり

関係もスムーズに行ったと言えるかも知れません。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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