後藤又兵衛(後藤基次)はどんな最期を遂げるの?




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豊臣家と徳川家との間で戦いが勃発すると後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)は軍勢を率いて参戦。彼は大坂夏の陣で討ち死にしてしまうのですが、彼は一体どの様な最後を迎える事になるのでしょうか。

 

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豊臣家と徳川家が和睦

真田丸 真田幸村

 

豊臣家は今福・鴨野の戦いで徳川軍に勝利。また真田信繁(さなだのぶしげ)が作った真田丸でも大勝利を果たします。こうして豊臣家優位に大阪冬の陣は動いていくのですが、豊臣秀頼のママである淀(よど)殿は戦の凄まじさを知ると徳川家と和睦を画策。

 

 

このことは他の諸将へ一切伝えずに進んでいきます。こうして豊臣家と徳川家は和睦を行うことになるのですが、この和睦が成立する前に諸将と秀頼は最後の会議を開き、会議の内容は和議を行うかどうかです。秀頼は五人衆へ意見を求める前に「私は大阪城へ篭城することを決めた時から、この命は城とともにあると考えている。」と述べた後、諸将の意見を聞きます。

 

秀頼の言葉を聞いた諸将は大いに涙を流して感動します。又兵衛もそのうちの一人ですが、彼は感動を押し殺して諸将へ「このまま徳川家と戦っても勝ち目は薄いと存じます。そこでここは徳川家と一旦和睦を結んで、状況の変化を待ったほうがいいのではないか。」と伝えます。この又兵衛の意見が諸将の意見の総意となり、徳川家と和睦することが決定します。

 

こうして徳川家と豊臣家の和睦は成立することになります。

 

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徳川家の約束破り

徳川家康

 

徳川家は豊臣家と和睦が成立すると和睦の条件の中の一つである大阪城の破壊が入っておりました。豊臣家ではこの城破壊の条件は破壊したという事実があればいいと考えておりました。

 

しかし徳川家では大阪城の防備を全て破壊して、防御力ゼロにすることを目的としており、和睦が成立した翌日から大阪城の防備を破壊していく工事が行われます。豊臣家では徳川家が勝手に工事していることに怒り徳川家へ抗議しまくりますが、徳川家は豊臣家が行ってくる抗議を無視して工事を突貫していきます。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

そしてついに鉄壁と謡われていた大阪城の防御力はゼロになってしまいます。大阪城へ徳川軍は難癖をつけて再び開戦。そして徳川家は防御力がなくなった豊臣家と結んでいた和睦を破棄して、再び戦を仕掛けてくるのです。

 

又兵衛出陣

足軽a-モブ(兵士)

 

豊臣家は徳川家との和睦が無くなったことを知ると急いで諸将を読んで、今後どのようにして徳川軍と対決していけばいいのかを話し合います。この話し合いで又兵衛は「大阪城から20キロほど離れた道明寺(どうみょうじ)で徳川軍を迎撃するのがいいのではないか。

 

この地は狭隘であるから徳川軍が大軍で攻撃を仕掛けてくるのは不可能で、道明寺近辺にある山に上って逆落としをかければ徳川軍は必ず崩れていくであろう。そしてそのまま追撃を重ねて行けば徳川軍を追い返すことが出来るだろう。」と述べます。しかし又兵衛のこの作戦は大阪城の親衛隊である七手組などが反対したことで、受け入れられませんでした。

 

又兵衛は自ら立てた作戦を放棄するのはもったいないと感じ、大野治長から許可を得て道明寺方面に出陣します。

 

又兵衛の奮戦と最後

祁山、街亭

 

又兵衛は道明寺に到着すると近くの小高い山である小松山に向かって進軍します。この山は徳川軍が進軍してくるコースの上にそびえている山で、山の下は細い道であるため大軍を行軍することに不向きな地形でした。

 

そのため又兵衛はこの地で徳川軍と対決してすることで少ない兵数でも十分に戦うことができると小松山に到着したことで確信を持ちます。しかし援軍は誰も来ておりませんでした。小松山に夜中についた又兵衛は幕府軍の先鋒隊が駐屯している村の近くに駐屯し、夜が明けると同時に参上から敵軍へ鉄砲を仕掛けて攻撃を開始。

 

こうして先端が開かれることになります。又兵衛隊の攻撃は成功して敵軍をバッタバッタと打ち倒していき、戦闘は優勢に進んでいきます。幕府軍先方が攻撃を受けていることを知った伊達政宗(だてまさむね)は先鋒隊を救援するため、伊達軍の先鋒片倉重綱(かたくらしげつな)隊の鉄砲隊を差し向けます。

 

重綱は又兵衛隊の側面に回って又兵衛隊へ鉄砲隊の猛射撃を行います。この攻撃を受けた時、又兵衛はたまたまこの重綱軍の近くにいてこの攻撃を受けしまいます。又兵衛はこの鉄砲隊の攻撃によって討ち死にしてしまいます。又兵衛隊は又兵衛が討ち取られてからも奮戦しますが、伊達軍の圧倒的な火力の前に全滅してしまうのです。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

黒田廉さん02a

 

又兵衛はこうして討ち死にしてしまいますが、実は又兵衛隊の後ろから援軍が近づいておりました。その援軍は真田幸村などの諸将でした。彼らは又兵衛隊に追いつくべく急いで行軍しておりましたが、又兵衛を救うことはできませんでした。

 

黒田レン

 

もし又兵衛がこの援軍到来を知っておれば先走って攻撃を仕掛け無かったかもしれません。ですが又兵衛がもし生き残ったとしても豊臣家が徳川家に勝つのは難しかったかもしれません。

 

「今回の戦国史のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃあまたにゃ~」

 

参考文献

後藤又兵衛~大坂の陣で散った戦国武将~福田千鶴著など

 

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