昌文君(しょうぶんくん)はどんな人?実は昌平君と共に楚からやってきた人質?

2017年1月30日


 

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キングダム

 

キングダムでは1巻から登場している古株で、最初からオジサンだった昌文君(しょうぶんくん)。

今ではすっかり文官が板についていますが、初期は剣を持ち戦っていますし、

本当は武官で王騎(おうき)の同僚で男気を評価されていた事も明かされています。

そんな昌文君、史実では、どんな人なんでしょう?

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも、名前が明らかではない昌文君

嫪毐 ろうあい

 

昌文君(しょうぶんくん)について、分かっている事はほとんどありません。

いつ頃かは分りませんが秦の相国になり、紀元前238年に嫪毐(ろうあい)

反乱を起こすと、昌平君(しょうへいくん)と共同で反乱を鎮圧したとある位です。

 

そもそもの話として、彼は名前自体が明らかではなく、昌文君というのは、

列侯の敬称で、秦国のいずこかに領地を持っていた事を意味しています。

 

例えば、楚の春申君(しゅんしんくん)は、本名は黄歇(こうあつ)ですが、

手柄があり、淮北の12県を食邑として与えられて春申君と名乗るようになります。

今や過去の人の呂不韋(りょふい)は秦の咸陽の10万戸を食邑として与えられ、

文信侯(ぶんしんこう)と名乗っています。

また、李牧(りぼく)は紀元前233年、秦の桓騎(かんき)を撃破した後、

武安(ぶあん)という領地を与えられて以来、公式には武安君と名乗っています。

 

そう考えると、○○君というのは本名ではなく敬称なのです。

つまり、昌文君の本名は分っていないのです。

 



昌文君の出身は楚?その根拠は・・

キングダムと三国志

 

さて、昌文君は、キングダムでは、昌平君と共に丞相を務めて左丞相となっています。

これは、呂不韋が、その上のランクの相国に昇進して空位になった左丞相に、

秦王政の陣営が、昌文君をねじ込んだからです。

しかし、史実を見る限り、昌文君は相国になっており左丞相ではありません。

では、ありますが、昌平君、昌文君が共に左右丞相を務めているのは、

まったくのフィクションではないとも言えるのです。

 

というのは、昌文君は昌平君と同時期に相国に登っているからです。

左右の相国か前後して任命されたのか不明ですが、両者の処遇は、

赤の他人としては奇妙にシンクロしているように感じます。

 

衝撃事実!昌平君と昌文君は、同時期に楚からやってきた人質

 

これは呂不韋の時代ですが、趙から春平(しゅんぺい)侯と

平都(へいと)侯という人が秦に入って人質になっています。

楚からは、後の春申君黄歇と後に孝烈(こうれつ)王になる公子完(かん)が

昭襄王(しょうじょうおう)の時代に秦に人質として入ってきています。

どうやら、秦に入る人質はメインの人質とそのお付きの人という形で

二名がやってきていたような感じなのです。

 

こうして考えると、昌平君と昌文君は同時期に楚から秦にやってきて、

お互いに有能で相国まで出世した人なのではないでしょうか?

漫画では血縁も因縁もない関係で年齢も大分違うように見えますが、

本当は大体同年齢くらいで昌平君は楚に戻って楚王に即位している事から見ると、

昌平君が主の人質、昌文君が従者という扱いだったのだと思います。

 

昌文君も楚に帰ろうとしていた?

 

謎が多い昌文君ですが紀元前226年に某山に移りそこで死んだとされます。

一見、なんの事はない記述ですが、事実であれば、この某山とは、

かつて楚が、黔中(けんちゅう)郡や且蘭(しょらん)郡を設置した場所で

後に秦の黔中郡になった土地なのです。

 

老齢になった昌文君が、何故、こんな辺鄙な土地へ移ったのか?

これはひとえに祖国に帰りたいという気持ちからではないかと

そのように思えます。

 

推測ですが、どうやら、秦が楚を攻めるようだと知った昌文君は、

心配でたまらず秦王政へ楚への帰還を願ったものの相国の重職を務めた

人間である為に許されず、それならばせめて、楚に近い土地への移動を願い

そして辿りついた黔中で病死したのではないでしょうか?

 

キングダムウォッチャーkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

全くの推測ですが、昌文君が帰国を許されず楚に近い黔中で病死した事は

同じく相国だった昌平君に大きな影響を与えたのかも知れません。

そして、強引に出奔して淮陽(わいよう)に移り戦争を回避しようとしたものの

項燕(こうえん)や楚の人々に泣きつかれ、最期は王に奉戴されたのでは?

 

こうして両者の接点を考えると、赤の他人とは思えず、両者とも楚人で

しかも、楚と秦の戦いに置いて複雑な胸中を持っていたと考えても

不思議はないかと思います。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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