武田晴信(たけだはるのぶ)は北信濃最大の豪族である村上氏の本拠地陥落に成功します。しかし村上氏は本拠地から逃れて長尾家へ逃亡し、長尾家当主である長尾景虎(ながおかげとら)に北信濃のへ出兵して欲しいと懇願します。
この懇願を聞いた景虎は軍勢を率いて北信濃へ向けて出陣を行います。晴信は景虎との直接対決を避け続けていたそうですが、彼はなぜ景虎との戦いを避け続けていたのでしょうか。川中島前半における晴信の挙動をおってみたいと思います。
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長尾景虎動く
長尾景虎は村上義清(むらかみよしきよ)の要請を受けて越後(えちご)を出陣して、北信濃へ向かいます。この時晴信も越後勢を迎撃するべく出陣しておりますが、景虎との直接対決を行うことをしないで信濃の領内防衛に努めておりました。景虎は晴信が出てこない為、北信濃の武田方の豪族達の居城を攻撃して陥落。
景虎はその後も北信濃で暴れまわることと数十日、晴信が出てこない為越後へ帰還します。晴信は越後勢が帰還したことをするとすぐに出陣して、攻略された領土を奪い返すことに成功しております。こうして武田・長尾の領有対決は見送られることになり、第一回川中島の戦いは終結することになります。
晴信の逆襲
晴信は景虎と直接対決することはしませんでしたが、調略によって逆襲を図ります。彼は越後の豪族である北条(きたじょう)景広(かげひろ)へ調略を行い、影虎に反乱を起こすように仕向けます。この調略は成功し、景広は影虎に叛旗を翻すことになります。景虎は北条景広が反乱を起こしたことを知ると急いで反乱軍を鎮定。
そして晴信は景広を降伏させたことでこの反乱は幕を閉じることになるのですが、この時景虎は景広に「なぜ反乱を起こしたのか」と問いただします。すると景広は「甲斐の武田家から援軍が来る予定でしたが、奴らわしらを見捨てたのです。」と怒りをあらわにして訴えます。このことを知った景虎は晴信へ強い怒りを覚えることになります。
第二次川中島の戦い勃発
景虎は景広をそそのかした武田家に強い怒りを覚え、再び北信濃へ向けて出陣。晴信は景虎が再び信濃へ出陣したことを知ると北信濃の豪族で善光寺別当(ぜんこうじべっとう)である栗田氏を善光寺近くの旭山城(あさひやまじょう)に入城させ、景虎軍からの防衛をさせます。また晴信も自ら軍勢を率いて北信濃へ向けて出陣。そして旭山城に対抗して葛山城を構築して長期戦の構えを見せます。こうして第二次川中島の戦いが勃発することになります。
しかしこの戦いでも晴信は終始越後勢との決戦を行うことをしないで防衛に努めます。両軍の対立は4月に始まったのですが、7月になっても決着を見ることはありませんでした。
そのため晴信は同盟していた今川家に要請を出して和睦の仲介に立ってもらうようにお願いします。
今川義元は晴信の要請を受けて武田・長尾両者の和睦の仲立ちに立つことにします。こうして両者は今川義元の仲介によって和睦が成立したことがきっかけで、撤退することになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
晴信はなぜ景虎へ決戦を挑まなかったのでしょうか。その原因は決戦を行ったことによって起きる人的損害と敗北時の影響を考えてのことです。晴信と景虎が一大決戦を行った場合、勝ったとしても人的損害は計り知れないほどのダメージを受けて国力は低下することになるのでしょう。
また敗北してしまった場合、せっかく苦労して手に入れた信濃全域に及ぶ影響は計り知れず、もしかしたら信濃の大半を失う事になるかもしれません。このようなことを考えた晴信は長尾家と一大決戦をすることを避けて、駆け引きに終始することで結果的に勝利に持っていくことを考えていたのではないかと思います。
参考文献 信玄の戦略 中公新書 柴辻俊六著など
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