武田勝頼は父である信玄が亡くなると武田家の跡をついで新当主に就任することになります。彼は新当主になった数日後に色々な問題に直面することになるのですが、その中でも一番の問題で早々に解決しなくてはならない問題がありました。
それは徳川軍を追い払わなくてはならないということと家臣団の一致団結です。かれは家臣団を一致団結させるためには父信玄を超える働きをしなくてはならないと考えて、領土拡張政策を積極的に行っていくことになります。
そこで彼がまず目につけたのが美濃侵攻(みのしんこう)と信玄が陥落することができなかった高天神城(たかてんじんじょう)攻略戦です。
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美濃へ大軍を率いて侵攻を開始
勝頼は徳川軍が三河や遠江、駿河へ攻撃をしかけていることを防ぐためにまず小手調べとして信長が領土としている東美濃(ひがしみの)へ攻撃を開始。徳川と織田は同盟していることから武田軍から攻撃を受ければ織田から徳川へ武田領へ攻撃を仕掛けることに対してストップがかかるのではないかと期待して攻撃を行います。
この攻撃ではかなりの戦果をかげることに成功しており、東美濃の明智城(あけちじょう)を含む数十城を陥落させることに成功しています。しかし織田家から徳川へストップが掛かるようなことはありませんでした。そのため勝頼は徳川を打ち払うべく自ら大軍を率いて出陣することにします。
父が陥落することができなかった高天神城を攻略
勝頼は自ら大軍を率いて遠江の要である二俣城(ふたまたじょう)へ救援に赴きます。徳川軍は二俣へ武田軍がやってくるとすぐに浜松城へ帰還します。勝頼は徳川軍へ痛撃を与えることができないため、父が陥落することができなかった要害堅固な高天神城へ攻撃を仕掛けます。
この城は武田信玄の攻撃を弾き返しただけあり、勝頼率いる武田軍の猛攻を一ヶ月以上耐え抜きますが、兵糧不足が問題となって武田軍に城を明け渡しております。この結果信玄が抜けなかった高天神城を攻略してことによって自らに自信がつくと同時に、内外に父以上の人物であることを印象づけた一戦と言えるのではないのでしょうか。
信長が恐れた武田勝頼
織田信長は武田信玄が西上作戦を行うために西進してきた時の恐怖をぬぐい去ることができませんでした。そのため彼は信玄が亡くなった後に勝頼が武田家の新当主として就任しても恐れておりました。彼がいかに武田家を恐れていたかを現すエピソードが残っております。
上杉謙信は勝頼を早く討伐してくれと徳川と織田へ要請を出します。信長は謙信に対して「越後から勝頼軍を牽制してくれると非常に助かる」と述べてから
「勝頼は信玄の遺言や法をしっかりと守っており、信玄に勝るとも劣らない人物であると考えている。油断すれば大変なことになるから気をつけるべし」と書状を送っており、信長の中でいかに勝頼が大きな存在であったのかがわかるエピソードだと思います。
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戦国史ライター黒田レンの独り言
武田勝頼は領土拡張制作を推し進めていくことで、家臣団の意思統一を図っていこうと考えておりました。この考え方は確かに正しいと私は思います。勝頼は信玄から色々な事を教わったかもしれませんが、重臣達から認められるような実績を残していないまま武田家を継ぐことになってしまいます。
その彼が重臣達から認められるためには戦で勝利を重ねるのが、一番早いのではないかと思います。しかしこの領土拡張政策は家臣団の意思統一を図るにはいいのかもしれませんが、国力を省みてやらないと大変なことになるのと一度敗北してしまったときにも大変なことがおきます。
さて勝頼はどうやって領土拡張政策を推し進めていったのでしょうか。
参考文献 新人物往来社 武田勝頼 柴辻俊六著
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