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武田軍の西上作戦はなぜ失敗してしまったのか?武田信玄の病が関係していた?

2017年2月12日


 

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真田丸02(武田信玄)

 

武田軍は最強と言われた騎馬隊と信玄の調略によって領土を拡大し続けており、駿河を攻略した後に京都へ向けて進撃するため、大軍を率いて遠江・三河へ攻略を開始。

 

武田信玄に挑む若き徳川家康

 

途中で徳川軍を打ち破って向かうところ敵なしの状態であった武田軍は西上作戦を中断して甲斐へ戻らなくてはならない状況へ陥ります。その原因を今回ご紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田信玄の病とは?

自らの死を秘密にした武田信玄

 

武田信玄は信濃攻略戦から病を患っていたそうです。この病にはいろいろな説があり、肺結核(はいけっかく)、肺炎、胃癌、食道ガンなどがあります。しかし信玄は一時的にこの病を克服したそうですが、信玄の晩年期に行われた西上作戦では再び病が再発。そのため信玄はこの西上作戦中に病が重くならないようにするため、医者を従軍させていました。

 

信玄の病再発そして・・・・

武田信玄と徳川家康

 

信玄は三方ヶ原の戦いで徳川軍を蹴散らした後、病が再発して幾度も血を吐いたそうです。そのため彼は医者からドクターストップがかかったことが原因で、刑部(おさかべ)の地で全軍を停止させて、病状が安定するまで様子を見ることになります。

 

武田家の騎馬隊を率いていた老将・山県昌景

 

だが信玄の病状は回復することなく幾度も喀血を繰り返してしまいます。山県昌景や馬場信春、武田勝頼などの諸将は信玄にこれ以上無理をさせるわけには行かないと考えて、甲斐へ引き上げることを決めます。こうして武田軍は甲斐へ全軍を引き上げることになるのです。

 

信玄死す

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

信玄はその後信州の駒場(こまば)で彼は亡くなってしまいます。こうして武田信玄の夢であった西上作戦は失敗に終わり、信長包囲網は瓦解してしまうことになります。

 

信玄は遺言として武田信玄に顔が似ていたことから影武者を勤めていた逍遥軒信廉に甲斐まで信玄の代わりとして帰還せよと命令します。また勝頼には信玄の死後3年の間は秘密にせよと命令し、武田家の後継者として勝頼の嫡男である信勝にするように命じるとともに、

 

武田勝頼

 

勝頼に信勝が成年になるまで武田家の陣代として率いることを命じます。そのほかにも色々と遺言を残した信玄は無念そうな顔をして亡くなったそうです。

 

信玄死後の情勢

織田信長01

 

信玄が亡くなったことを知った織田信長は小躍りしながら喜びます。そして徳川家康は信玄が亡くなったことを知ると奪われた三河・遠江の所領を奪還するべく動き始めます。

 

信長包囲網を築き織田信長の邪魔をする足利義昭

 

また信長包囲網の首謀者であった足利義昭(あしかがよしあき)は信玄存命中に信長に対して叛旗を翻しますが、信玄が亡くなったことを知って大いに落胆するとともに信長に攻められて京都から追放されてしまいます。

 

滅びる朝倉義景一族

 

また浅井(あざい)家・朝倉(あさくら)家も信長の攻撃によって滅亡することになり、信長最大の危機であった信長包囲網はこうして消滅することになります。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

信玄死後の武田家ですが勝頼が陣代として率いることになりますが、前途多難でした。なぜならば勝頼は信玄から後継として教育された期間が短すぎたためと重臣達から認められていないことが原因です。

 

大軍を率いて攻める武田勝頼

 

そのため勝頼は重臣達から認められるためにある方針を固めることにします。その方針は信玄よりも積極的に戦いを行っていき領土を拡張する政策です。この方法を取る事によって信玄以来の古参の武将達に自分のことを実力認めてもらえば、家臣団が一致団結して戦うことが出来るであろうと考えます。

 

武田一門だが勝頼の時代に武田家をありのまま見限る穴山梅雪

 

この方針は一部では成功していくことになるのですが、ある戦がきっかけでこの方針は瓦解することになるのです。この勝頼のお話は今後はじめての三国志でご紹介していきたいと思いますのでお楽しみに。

 

参考文献 信玄の戦略 柴辻俊六著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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