光武帝・劉秀を支えた雲台二十八将の上位15人とはどんな人達だったの?

2017年2月12日


 

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始皇帝

 

始皇帝が秦帝国を打ち立てたますが、彼の強力な法体制に我慢できず、

彼の死後反乱が勃発。

その後劉邦が項羽と決戦を行い劉邦が勝利し、前漢帝国を打ち立てることに成功します。

 

王莽

 

だが前漢帝国は元帝の外戚であった王莽(おうもう)によって滅ぼされてしまいます。

そして王莽は「新」と言われる帝国を建設。

だが王莽の帝国を認めなかった各地の豪族達が反乱を起こし、

中華は群雄割拠の時代に突入することになります。

 

光武帝劉秀part1 04 劉秀

 

この群雄割拠の時代になった天下を統一し、

後漢王朝を築いた皇帝がチート皇帝として知られる光武帝・劉秀です。

劉秀はそのチートな能力をフル活用して各地の豪族達を討伐して行くのですが、

この時彼を支えたのは「雲台二十八将と言われ優れた能力を持った逸材達の活躍がありました。

今回はチート皇帝・劉秀を支えた雲台二十八将をご紹介しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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雲台二十八将軍とは?

光武帝

 

光武帝・劉秀は自らもチート的な能力を持っていました。

しかし彼の家臣団も非常に優れた能力を有しており、劉秀の天下統一事業を多いに助けます。

劉秀が天下統一を成し遂げた後劉秀の死後跡を継いだ明帝は、

後漢王朝の首都である洛陽の煙台と言われる場所に、

光武帝・劉秀を助けて天下統一事業に貢献した二十八将軍の像を彫らせます。

その結果後世でこの地に像を彫られた二十八将軍を雲台二十八将と称して、

呼ばれる事になります。

さてここから二十八将をご紹介していきます。

 

雲台二十八将筆頭・人を見る目なら誰にも負けなかった鄧禹

鄧禹

 

雲台二十八将の筆頭将軍に挙げられているのは鄧禹(とうう)と呼ばれる人物です。

彼は長安で学問を学んでおりましたが、この時に劉秀と仲良くなったことで彼と友達になり、

切磋琢磨しながら学問を学んでいきます。

その後劉秀が河北平定に派遣されることを知ると急いで故郷から出てきて彼の後を追い、

劉秀と合流して家臣となります。

彼の優れている点は人物の能力を見抜く力で、

彼が劉秀に推挙した人物は賈復(かふく)・呉漢(ごかん)・銚期(ちょうき)・

寇恂(こうじゅん)の四人を推挙しますが、いずれも優れた人材でこの四人は雲台二十八将にランクインされております。

また彼は劉秀から張良に匹敵するほどの謀略と智謀の持ち主であると褒められていました。

 

関連記事:鄧禹(とうう)とはどんな人?光武帝の親友だが戦争にべらぼう弱い雲台二十八将の1人

 

雲台二十八将第二位・呉漢:勇猛だが、時には悪いことも・・・

 

雲台二十八将の二番手は劉秀軍で一番勇猛であった呉漢です。

彼は劉秀が河北を平定している時に家臣となった人物で、

鄧禹によって能力を見出され将軍として活躍していきます。

彼は河北統一戦や河南、蜀など多くの戦線で活躍し、劉秀から戦について信頼を得ていました。

雲台二十八将は誰ひとりとして、虐殺や略奪を行っていませんでしたが、

彼だけは略奪・虐殺を行っていました。

しかし私欲を肥やしたくて行った略奪ではなかったので、

劉秀も彼を罰することができなかったそうです。

 

雲台二十八将第三位・賈復:美青年でありながら、戦が起きると鬼になる

 

第三位は劉秀の家臣団から「あいつは顔がよかったから家臣に選ばれたのだ」と陰口を叩かれていた賈復です。

確かに家臣の言うとおりで、非常に美青年でした。

しかし一度戦に身を投じると、各地に賊徒や豪族達の平定戦で大いに活躍します。

また彼は剛勇一辺倒の武将ではなくしっかりと学問を修めており、

知勇兼備の名将と言われるほどの名将軍でした。

 

雲台二十八将第四位・耿弇:無敗の名を冠する戦上手

 

耿弇(こうえん)は太守であった父の仕事を手伝いながら学問を治め、

兵法書を読みあさっておりました。

その後彼は河北へやってきた劉秀に従って21歳の時、戦で初陣を飾って大勝利をおさめます。

初陣を勝利で飾った彼は劉秀と共にいくつもの戦に参加して活躍。

耿弇が亡くなるまで一度も戦において負けの味を噛み締めることなく、勝利で飾り続けた名将です。

 

雲台二十八将第五位・寇恂:輸送面で戦を支えた物資の達人

 

寇恂(こうじゅん)も鄧禹(とうう)の推挙によって、河北で劉秀に使えます。

彼が任された仕事は物資調達と輸送です。

これは戦において非常に重要なポジションですが、難なくこなします。

また彼はこの物資調達や輸送面での活躍だけでなく、兵の調練、武器調達、馬の育成など、

多くのことに対して目を向けて行っていき、劉秀の天下統一事業を影から支えていきます。

その結果前漢時代に劉邦を支えた蕭何(しょうか)に匹敵する人物であると評価されることになった

人物です。

 

雲台二十八将六位・岑彭:軍律を厳しくして規律正しい軍勢を創設

 

岑彭(しんほう)は元々劉秀と敵対する勢力の武将でしたが、

劉秀軍の猛攻を受けて城を守っていた城主と共に降伏。

この時、劉秀に一命を助けられて配下に加わります。

彼もその後劉秀軍の一将軍として活躍していくことになります。

彼の軍勢は規律正しい軍勢を作り整然と行軍して、

彼の軍勢が敵勢に攻撃を仕掛けるときは兵や将校しっかりと命令を遵守。

このおかげと彼の采配の上手さが加わった事で大いに活躍していくことになります。

各地の群雄は彼が一回も略奪を行ったことがない軍勢であると聞くと争って、

彼に降伏を申し入れたそうです。

 

雲台二十八将第七位・馮異:大樹将軍として慕われた将軍

 

馮異(ふうい)は孫子の兵法書や左氏春秋(さししゅんじゅう)などを読んでいた読書大好き将軍。

しかし一度戦に立てば軍勢を指揮する巧さは、職人級のでした。

戦上手の彼ですが、論功を決めて報奨をさずける会議には、

絶対に出ないで樹木の下に隠れていたそうです。

その為彼は「大樹将軍」と言われ多くの兵や将校から慕われて、

兵や将校は「彼の元に属して戦に参加したい」と願っていたそうです。

 

雲台二十八将第八位・朱祜:劉秀の幼馴染として側で支え続けた

 

朱祜(しゅこ)は幼い時に父がなくなってしまったことから、

母の縁を辿って劉家に身を寄せることになります。

ここで彼は劉秀と劉秀の兄貴である劉縯(りゅうえん)と遊び仲間になり友人関係となります。

彼は劉秀に付き従って共に長安に行って学問を修めます。

この時に劉秀と共にはちみつを売って商売をしていたこともあったそうです。

その後も劉秀に従って彼の側に近くに仕えて、支え続けていきます。

天下統一後に大きな領地を彼にあげようとした劉秀でしたが朱祜は

「大した功績を残していない人物に、大きな領地を与えるのは無駄です。

他の功臣にさずけたほうがよろしいでしょう」と断りますが、

劉秀は彼の言葉を退けて領地を与えたそうです。

 

雲台二十八将第九位・祭遵:礼と法をいついかなる時も遵守

 

祭遵(さいじゅん)は裕福な家の出身でしたが、いつも身なりはボロボロの服装を来ており、

母親が亡くなると礼式に乗っ取り、手厚く葬ったそうです。

劉秀と出会ったのは激戦であった昆陽の戦い(こんようのたたかい)の後で、

劉秀は毅然とした彼の態度に感じるものがあり配下に加えます。

その後河北統一戦に従軍した時に劉秀の息子が法に違反してしまいます。

この時彼は劉秀の息子を張り倒して、そのまま殴り殺してしまいます。

この事を知った劉秀は彼を殺害してやろうと考えますが、家臣の反対されて殺害を中止。

祭遵を軍の監察官に任命して活用します。

彼はその後将軍に任命されて兵を率いることになるのですが、自分がもらった褒美は全て兵や

将校に分けてしまい、自らは若かりし頃と同じようにボロボロの服を来ます。

また奥さんにもボロボロの服を着させて質素倹約を通り越すほどの節約ぶりでした。

戦になると非常に軍指揮が巧みなのですが、勇猛さを持ち合わせた将軍でした。

ある戦で激戦になると祭遵の口に弓矢が当たって血だらけになってしまったそうです。

この時彼は弓矢を引っこ抜いて戦いを続けて、退却しそうになる軍勢を激励叱咤したことで、

戦に勝利をもたらしたそうです。

 

雲台二十八将第十位景丹:烏桓騎兵を率いて大活躍

 

景丹(けいたん)は烏桓突騎(うがんとっき)と呼ばれる精鋭の騎馬隊を率いて劉秀軍に加わります。

その後河北統一戦で大いに武功をあげ、将軍に任命されることになります。

劉秀は彼の武名を大いに褒めてある戦で賊軍が首都洛陽へ接近してくると景丹に

「君が出ていけば賊軍は恐れをなしてやってこないだろう。

寝てても十分に勝てる戦ではないか。」と持ち上げて、彼を洛陽へ派遣。

しかし景丹は洛陽に着くと数日後に病にかかってしまいなくなってしまいます。

 

雲台二十八将第十一位蓋延:強弓を引き、北方の異民族から恐れられるも戦では・・・・

 

蓋延(がいえん)は北方異民族から恐れられ、武勇に秀でた将軍です。

彼は呉漢と一緒に劉秀軍に参加し、戦を度々戦っていきますが、

戦における駆け引きが得意ではなくあまり戦が上手ではありませんでした。

また敵陣に蓋延軍だけで突っ込んで戦っていることが多々有り、劉秀から度々怒られておりました。

 

雲台二十八将第十二位銚期:信義と武勇に秀でた忠臣

 

銚期(ちょうき)は馮異(ふうい)に推挙されて劉秀に仕えることになります。

河北で劉秀が追い詰めれられて流浪の軍となっている時に、

河北の諸郡の太守や民衆から攻撃を受けてしまうことがありましたが、

彼は常に先陣にたって戦う剛勇を見せます。

また忠義に厚い人物で、劉秀に正面から諫言を行った人物です。

 

雲台二十八将第十三位耿純:将軍として武勲を重ねて行くが、地方行政官として転出して優れた才能を現す

 

耿純(こうじゅん)は河北の太守出身の息子で一時期、王莽に仕えて行政官として活躍。

その後劉秀兄弟を殺害した李軼(りいつ)に伝えなくてはならないことがあったため、

河北へ向かいます。

李軼と合流した耿純は河北の劉秀軍をもてなすよう言われ、

劉秀とその軍勢をもてなすことになります。

この時劉秀軍が規律よく行動している所を見て劉秀軍に付き従っていく事を決意し、

配下として参加。

その後劉秀軍の将軍として一族を率いて、戦で武功を重ねていくことになります。

しかし彼は劉秀に願い出て将軍の位を返上して東郡の太守へ転出。

当時東郡は非常に荒れていた土地でしたが、彼は見事に東郡を収めることに成功し、

民衆から慕われる名行政官としてその名を馳せます。

 

雲台二十八将第十四位臧宮:剛勇でありながら寡黙

 

劉秀の兄である劉縯(りゅうえん)に降伏し、劉秀の配下として加わることになります。

その後劉秀軍に付き従って数々の戦に参加して、武功を積み重ねていきますが、

寡黙な人物でした。

また彼は武勇に秀でており公孫述討伐戦に参加したときは大いに武功を積み重ね、

その武勇を劉秀から褒め讃えられます。

 

雲台二十八将軍第十五位馬武:酔っ払いだが劉秀から愛された将軍

 

馬武(ばぶ)は元盗賊である緑林軍へ劉秀軍が参加した時に配下となった武将です。

河北統一戦では大いに武功を表します。

しかし彼には大きな欠点がありました。

それは酒が大好きであるということです。

彼は酒を飲んで酔っ払うと他の将軍の短所を指摘します。

またある宴会を行った時に劉秀は馬武へ

「もし平和な時代であったら君は何になっていた。」と尋ねられたことがありました。

すると彼は「私は多少武勇の心得があるので、太守ぐらいにはなったでしょう。」と

語ります。

劉秀は「君じゃ無理だよ。せいぜい亭長になれればいいほうだろう。

私は君が亭長になるよりも賊になるかどうかが心配だよ」と行って笑い転げたそうです。

このように劉秀から大いに可愛がられた人物が雲台二十八将軍の第十五位でした。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

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今回はチート皇帝劉秀の配下である雲台二十八将の中で上位十五人をご紹介しました。

彼がチート的な能力を持っていながら、彼の家臣も多彩な才能を持った臣下がたくさんあり、

優れた君主と家臣がいれば他の豪族達はなすすべがなかったでしょう。

「今回の後漢時代の武将のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃあまたにゃ~」

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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