高祖・劉邦(りゅうほう)。
歴史を少し知っている方なら漢帝国を樹立した初代皇帝です。
しかし劉邦は天下統一後疑心暗鬼に駆られてしまい、
今まで一緒に闘ってきた諸将をちょっとしたことでも疑ってしまいます。
それが原因で項羽と天下を争っていた時の諸将が反乱を起こします。
劉邦はこれらの諸将の反乱鎮圧や長城の外にいる異民族である匈奴との戦いを行った後、
亡くなってしまいます。
その後劉邦の妻呂雉(りょき)が漢の政権を握り、
呂雉の一族が漢の政権内で非常に強い力を持つことになります。
その為漢の政権は大きく乱れてしまいますが、呂雉の死後彼女の一族を粛清。
そして劉邦の第四子である劉恒(りゅうこう)が皇帝の座に就きます。
だが彼が皇帝の座についたとき漢帝国は大いに乱れておりましたが、
この皇帝は家臣とともに一生懸命頑張って漢帝国を立て直していきます。
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この記事の目次
お母さんが人相見から予言をくだされる
劉恒のお母さんである薄(はく)という人でした。
この人は昔お母さんに連れられて人相見で有名な許負(きょふ)へ占ってもらったことがあります。
ここで許負は薄を見て「この娘は天子の子を後年生むことになるであろう。」と予言されます。
薄のお母さんはこの言葉を信じて、
薄が住んでいた魏の実力者である魏豹(ぎひょう)へ嫁がせます。
しかし魏豹は劉邦に敗北して薄は劉邦の後宮へ入れられます。
その後薄夫人は劉邦の息子である劉恒を生むことになります。
代王に就任
劉邦が天下統一すると劉邦の四男であった劉恒は代王になるように命じられます。
彼は代の地へ赴き、この地の王として君臨することになります。
その後劉邦が亡くなると彼の妻であった呂雉(りょち)が漢帝国を牛耳り、
自らの一族を要職につけて漢の国をすき放題、やりたい放題に政権を運営していくことになります。
呂氏一派粛清、そして皇帝に
呂雉が漢帝国の政権を運営しておりましたが、彼女が亡くなると漢帝国樹立時の功臣である
周勃(しゅうぼつ)や陳平の働きによって政権を牛耳っていた呂氏一族が殺され粛清。
そして新たな皇帝として代王であった劉恒が指名されます。
彼は皇帝になる決意を固めて漢の首都である長安へ向かうことにします。
ボロボロになっていた漢帝国
劉恒が皇帝に就任した時、漢の政権はボロボロになっておりました。
その原因は呂雉一派が政権を握って好きなことをやった事で政権内はボロボロ。
また前漢最強の異民族である匈奴(きょうど)との戦いなどが主な原因です。
そこで彼は農政に力を入れることを主眼に置き、政権を立て直す計画を行っていきます。
ボロボロになった漢を立て直す政策その1:農業奨励
まず劉恒は農業を奨励して民衆の力を回復させるために、税を安くすることにします。
また一定期間税を廃止するなど民力回復に努めます。
この結果、民衆の力は回復していき、
倉庫には食べきれないほどの食料が備蓄されていたそうです。
ボロボロになった漢を立て直す政策その2:厳罰廃止
劉恒は民力回復に努めていく一方で厳罰の全撤廃を行います。
当時重罪であった罪人には、刺青の刑や鼻を切る刑、
踵をブッタ斬る刑など肉体に損傷を与える刑罰が行われておりました。
彼が目指す政治は仁政を目指していることから身体にこのような損傷を与える刑罰を廃止。
また大逆罪適用などを緩和していき、極刑を減らしていくことにします。
色々な政策を実施して漢を立て直していく
劉恒は上記以外にも匈奴との外交において親しくなる方針を行い、
匈奴と国境を接している地域の守備兵を減らすことで戦費軽減に努めます。
また長安で贅沢ぐらしをしていた王達を領地へ返して、領土の統治に専念するように命じます。
領地経営に専念させることで、漢全体の国力増加が狙いでした。
さらに自分も節約して豪華な服を着ないばかりか、夫人達にも豪華な服を纏うことを禁じます。
こうした節約を行ったことで、国庫は潤っていきます。
彼が皇帝としていた期間を文帝の治といい、
ボロボロだった漢帝国が豊かになっていく時代となります。
前漢ライター黒田レンの独り言
前漢時代は文帝が節約や民力回復に勤めていったことで漢の国力は回復していくことになります。
そのおかげで、民衆は豊かになり心に余裕が出来てきます。
しかしまだまだ漢の国力回復は達成されましたが、増大することはありませんでした。
だが文帝・劉恒の次代の皇帝によって漢は最大の国力に達することになるのです。
「今回の前漢時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」