後漢をぶち壊した男、董卓(とうたく)、若い頃は男伊達を気取り異民族と好んで交際したという彼は桓帝の末年に六郡良家子(ろくぐん・りょうかし)に選ばれ、羽林騎(うりんき)になったとされます。
よく三国志に出てくる羽林中郎将などの羽林ですが、どのような役職なのでしょうか?
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元は前漢の武帝の時代に設置された建章営騎
羽林騎の歴史は、前漢の武帝(ぶてい)の時代まで遡ります。武帝は、隴西(ろうせい)、安定、北地、天水、上郡、西河という涼州と并州(へいしゅう)にまたがる地域から良家子を選抜して建章宮を守らせました、なのでこれを建章営騎(けんしょうえいき)と言います。
仕事としては、天子の行幸や狩猟などに付き従い、身辺を守る仕事です。では、どうして、この六郡から良家の子弟を選んだのでしょうか?
それは、ひとえに、この地域が遊牧民と境界を接しており、よく言えば勇猛、悪く言えば荒っぽい元気な青少年が多かったからです。当然の事として、家柄以外にも、騎射の術の熟達度も見たはずで、やがて、皇帝を守る直属の騎兵の性質を持っていきます。
羽林騎を監督するのが羽林中郎将
建章営騎は、前漢の9代皇帝、宣帝(せんてい)の時代に中郎将と騎都尉(きとい)により監督されるようになり、羽林騎と呼ばれるようになります。ちなみに羽林とは、国の羽翼が林の如く盛んであるという意味です。
やがて、羽林騎は、九卿の一つ、光禄勲(こうろくくん)に属して宮殿を守るようになり、隊長としては、羽林中郎将が監督するようになります。武帝に直々に任命された事から、羽林騎は非常に名誉ある地位でした。
羽林騎は、左右の羽林監に別れる
羽林騎は、後漢の時代に再び復活し、光武帝は建国に功積のあった者を羽林騎に任命し、その職は代々世襲になりました。この羽林騎は全部で1800騎ほどいて、左右の羽林監に900騎ずつ配備されていました。
董卓のせいで脳筋イメージですが、羽林騎は虎賁(こほん)と同様に洛陽の大学で学び文武両道であったようです。そう考えると、董卓も見た目よりは本当はずっと賢かった事になります。
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董卓、桓帝の末年、羽林騎に任命される
男伊達を気取り、異民族を討伐したり、羌族の酋長に牛を潰して振る舞うなど中華の秩序に捕らわれずに異民族と対等に付き合ったロックな董卓は、
桓帝(かんてい)の末年、西暦167年頃、六郡良家子に選ばれて羽林騎になります。董卓の年齢は不詳ですが、幾ら男伊達を気取って放浪しても当時の事、二十歳くらいではなかったかと思います。
董卓の武芸は抜きんでて素晴らしく、弓袋を背の左右に背負い、馬を走らせながら左右、いずれの腕でも弓を放ったと言います。
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