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執筆者:kawauso

【中華版聖闘士○矢】集まれ!光武帝と雲台二十八将を全員紹介

光武帝
この記事の所要時間: 2739




王莽

 

前漢を滅ぼして新を立てた王莽(おうもう)を滅ぼし、

さらに各地に割拠した群雄を倒して再び、漢を復活させたチートな英雄、

劉秀(りゅうしゅう)こと後漢の初代皇帝、光武帝(こうぶてい)

 

光武帝

 

そんな彼には、天下統一を補佐した二十八人の英雄がいました。

この二十八には意味があり、天球における天の赤道を二十八宿に区分けした

エリアに対応しています。

 

光武帝

 

どうやら光武帝は神秘的な惑星や恒星の運行と後漢の功臣をなぞらえたようで、

一種の中華版聖闘士聖矢な感じになってます。

そこではじめての三国志では、少々長いですが、その二十八名を紹介していきます。




この記事の目次

エントリー№1 太傅高密侯 鄧禹(とうう)

鄧禹

 

鄧禹(とうう)は、南陽新野の人で光武帝の太学時代の同級生で成績優秀でした。

豪族の反乱軍である平林軍の劉玄(りゅうげん)が王莽を破り、

更始帝を名乗って漢を復興させ、鄧禹を出仕させようとしますが、

皇帝になり贅沢三昧の劉玄の人間性を見抜き従いませんでした。

しかし、劉秀が劉玄に疎んじられ、行大司馬として河北平定に派遣されると

劉秀の後を追って将軍になります。

 

鄧禹と光武帝

 

その時、劉秀が冗談半分で「なに?お前俺の家来になりに来たのん?」と言うと

鄧禹はあなたを帝王にして私は歴史のページにちょっと名を残したい」

と冗談で返し、劉秀を大笑いさせました。

鄧禹は劉秀の河北平定に将軍として貢献しました。

 

王郎

 

精兵数千を徴収しては、前漢の成帝の遺児、劉子輿(りゅうしよ)を詐称する

群雄、王郎(おうろう)に挑み度々勝利して敵将を生け捕りにしています。

 

赤眉軍

 

西暦24年、農民反乱軍でも一番巨大な赤眉(せきび)軍が西進して長安に攻め入り、

更始帝の劉玄がこれを迎撃するに及び、劉秀は両者の隙に乗じて関中を併合しようと

考え、劉秀自身は中原の経略に専念するため、鄧禹を前将軍として節を授け、

麾下の精兵の半分にあたる2万人を与えて関中攻略を任せました。

 

自軍の半分を割いて与える、この一点だけでも鄧禹に対する劉秀の信頼が分ります。

 

西暦25年、河東郡で劉玄の大将軍、樊参(はんさん)の兵数万、

王匡(おうきょう)、成丹(せいたん)、劉均(りゅうきん)らの兵十余万を撃って

平定、支配地の地方官を配置変えする事で、親劉秀派の人間に太守や

郡守を差し替えて支配を徹底します。

まさに関中支配の総仕上げですが、それを自らも戦いながら行うあたりは、

鄧禹のマルチな才能が窺えます。

 

光武帝

 

劉秀が即位すると鄧禹は大司徒を拝命し、酇(さん)侯に封ぜられ

食邑1万戸を授けられました。

これは、功臣の反乱を防ぐ為に、あまり領地を与えなかった光武帝としては

最高の待遇です。

こうして鄧禹は、引き続き征西軍を指揮し関中の平定に当たります。

その関中は赤眉の乱のために荒廃しており、鄧禹の征西軍は厳正に軍紀を

正していたために衆望を集めます、1日に降伏する者は千人を数え、

軍勢は百万に達すると称しました。

 

赤眉軍

 

赤眉軍は数十万もいますが、生産せず、蝗のように食うばかりで

長安を支配しては略奪を繰り返したので長安は廃墟と化し、

赤眉郡は兵糧を切らして西に向かい鄧禹はその間隙に長安を奪取しました。

 

鄧禹は漢中から関中に侵入した群雄の延岑(えんしん)と藍田で

交戦して勝てませんでしたが、一方では、劉玄により漢中王に封ぜられていた

劉嘉(りゅうか)を降伏させます。

ところが、劉嘉の部将であった李宝(りほう)を鄧禹が非礼として

斬ったためにその弟に叛かれました。

 

さらに一度は去ったものの、食糧を手にいれられず再び長安に戻って来た

赤眉軍との戦闘も始まり、部将の造反や食糧不足など悪条件が重なって

鄧禹は敗れ続けたので、劉秀は鄧禹を馮異(ふうい)と替えることにしました。

 

鄧禹

 

しかし責任感の強い鄧禹は征西の任務を受けて功を遂げなかったことを恥じ、

飢えた兵で赤眉に挑んで敗戦を繰り返す事になります。

27年、東に帰る途中で馮異軍に出遭った鄧禹はなおも赤眉と戦わんとし、

反対する馮異を巻き込んで、また大敗北しました。

これで鄧禹は敗走しますが、戦上手の馮異は敗軍をまとめて再度赤眉と戦い

これを撃破しました。

 

鄧禹と光武帝

 

鄧禹は大きな責任を感じ、敗残の二十四騎とともに劉秀と合流して、

大司徒と梁侯の印綬を返上してしまいます。

劉秀は責任を取らせる為に、大司徒を免じ梁侯はそのままにし、

しばらくしてから、右将軍に任命しています。

 

28年には、鄧禹は、右将軍として出征、仇敵の延岑を南陽に破り

漢中へ敗走させその残党を投降させて名誉を挽回します。

37年に天下が統一されると改めて高密侯に封じられ、

また、劉秀が武断政治から文治政治に乗り換えると左将軍の賈復(かふく)と共に

臨時職である右将軍を辞して劉秀を満足させます

 

56年、司徒を代行し、東への巡狩に随行し泰山での封禅(ほうぜん)に立ち会い、

翌年、明帝の太傅を務め、賓客として遇されました。

 

鄧禹と兵士

 

鄧禹の軍勢は規律厳正で、敵は戦わずして投降するものが続出しました。

一方で頑固な点もあり責任感が暴走して無理な戦争を繰り返したりし、

赤眉相手にはその欠点が出ています、また人を見る目が確かで、

光武帝は人材を推挙する時には、必ず鄧禹に聞いてから採用したようです。

 

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エントリー№2 大司馬広平侯 呉漢(ごかん)

 

呉漢は南陽郡宛県の人で、身分が低い貧乏人の子です。

亭長の頃、自分の客が罪を犯したのを庇い親友の彭寵(ほうちょう)と共に逃亡し、

幽州で馬商人などをしながら土地の任侠と交わって過ごします。

西暦23年、更始帝が呉漢を召し出し、彭寵は漁陽太守、呉漢は安楽令になります。

しかし、更始帝の政治はすぐに乱れ、河北では王郎が前漢の成帝の遺児を

詐称して独立します。

しかし、呉漢は、王郎よりも劉秀の方が器が上と見て、劉秀の檄文を偽造し、

「王郎が成帝の遺児とは真っ赤な嘘であり、河北の諸侯は皆、劉秀に従っている」

人を派遣して各地で吹き込み、魚陽太守の彭寵や官僚を信用させました。

これにより、王郎の支配下で孤立していた劉秀は拠点を得ます。

 

その後は大将軍に任じられ、更始帝の軍や匈奴の軍を退け、

反対勢力を次々と下すなど大きな手柄を立てていきます。

 

同郡の蓋延(がいえん)、王梁(おうりょう)、更に上谷郡の将、

景丹(けいたん)、寇恂(こうじゅん)、耿弇(こうえん)と共に、

王郎の軍を撃ち、広阿で劉秀の軍に合流、偏将軍に任じられ、

劉秀が王郎の邯鄲を討った後に列侯に封じられました。

 

更に劉秀が幽州から兵を発する際には大将軍に任じられ、

その勢いで、元は主君だった更始帝の支配下から決別し、

更始帝が擁立した幽州牧苗曽(びょうそう)を右北平郡に斬ってその軍を奪い、

更に兵を集め、農民反乱軍の銅馬(どうば)を追う劉秀本軍に合流します。

また岑彭と共に更始帝の尚書令謝躬(しゃきゅう)を鄴に斬り捨てました。

 

25年、呉漢は諸将と共に図讖(予言書)を劉秀に献じ、

劉秀に皇帝にすることを促します。

こういう神秘的な事が好きな劉秀は迷った挙句に即位し、

呉漢を先の苗曽・謝躬を斬った功によって三公の一つ大司馬に任命します。

 

そこからも呉漢は、九将を率いて流賊の壇郷(だんごう)を破り、

功によって広平侯となり四県を賜ります。

これは、第一位の鄧禹と同じ県数なので食邑1万戸はありそうです。

 

27年には、二将、耿弇、蓋延を率いて流賊の青犢(せいとく)を破って降し、

次には七将を率いて、当時の群雄の1人劉永(りゅうえい)の将、

蘇茂(そも)を破ります。

以後も群雄や農民反乱軍が出てくる度に、大司馬として指揮下の将を

統率し呉漢は出陣、幾つもの戦功を積み上げます。

 

戦争においては、負けなしの呉漢ですが、立派な振る舞いがある半面で、

野蛮な行動も時々見られ、蜀で独立した公孫述(こうそんじゅつ)を滅ぼした時には、

公孫述一族を誅殺するのみで飽き足らず宮廷で大規模な略奪をおこなったりし

光武帝に叱られたりしています。

 

エントリー№3 左将軍膠東侯 賈復(かふく)

 

賈復は南陽の冠軍の人で王莽政権の末に県の掾(えん)になり、

やがて天下が乱れると、数百人を率いて将軍を名乗ります。

西暦23年に、更始帝が新を滅ぼして即位すると、宗族の漢中王の

劉嘉に仕えて校尉になりますが、更始帝の暴政に見切りをつけて、

河北に左遷された劉秀の下に行き、破虜(はりょ)将軍になります。

 

西暦25年、光武帝の即位後、劉秀の部将だった鄧奉(とうほう)が、

味方の呉漢に領地を荒らされた事を怒り、反旗を翻すと

その鎮圧に当たりますが数カ月戦っても勝てず自身も重傷を負ったりしています。

 

賈復は学問好きで勇気があり、光武帝は自分の馬を賈復に与えるなど優遇します。

しかし、賈復には、どういうわけか同僚を讒言する悪癖があり、怒った同僚が

光武帝に直訴して、賈復を地方官に飛ばそうとしますが、光武帝は、

「賈復には威厳があり必要な人材だ」と断じて許可しませんでした。

 

エントリー№4 建威大将軍好畤侯 耿弇(こうえん)

 

耿弇は扶風茂陵の人で若くして詩、礼を学んだ文人です。

父の耿況(こうきょう)は王莽によって上谷郡太守に任命された役人で

その為に王莽の新王朝の滅亡後、地位が不安定になります。

そこで、新しく更始帝が即位すると、耿弇を挨拶に派遣しますが、

耿弇は、即位前からボンクラと評判の更始帝を見限っていて、

行大司馬に任命された劉秀が近くにいるのを幸いに劉秀の家来になりました。

その頃、邯鄲では、易者上がりの王郎が前漢、成帝の遺児劉子輿を詐称して、

かなりの勢力になっていましたが、耿弇は

「上谷で兵を集めて逆賊王郎を打ち破ってみせます」と発言。

劉秀は「小僧の癖に大志がある」と言って褒めました。

 

以後、邯鄲の王郎勢力と戦う事長く、何度か破れましたが、

ついには、これを平定して劉秀が皇帝に即位するのに貢献します。

 

西暦24年、根拠地の信都郡を得た劉秀の家臣達は、一度、

長安に戻って軍備を整えてから王郎に当たるように進言しますが、

耿弇は、それに反対して、

「今兵力を補充する為に長安に戻れば王郎は息を吹き返して

河北を固めてしまい、天の時が去る」と諫言し、

 

兵が欲しければ、北の幽州から得て、軍備を整えるべしとして、

自らも軍を率いて幽州を降し、兵力を得ています。

生涯に四十六の敵軍を倒し、三百の城を落として挫けた事なしと

後漢書には記録されていますし、斉の張歩を滅ぼした時には、

徹底した計略戦で当たり、曹操もこれを参考にした程です。

 

エントリー№5 執金吾雍奴侯 寇恂(こうじゅん)

 

寇恂は上谷郡昌平県の人で、先祖代々が豪族というエリートの家柄で成長しました。

学問をよくしたので上谷太守の耿況の下で功曹として仕えます。

王莽の王朝「新」が倒れ、反王莽の豪族連合、平林軍のリーダー

更始帝、劉玄が即位しますが、安定せず、河北では易者あがりの王郎が、

前漢の成帝の遺児を詐称して邯鄲で独立します。

王郎になびく勢力が多かったのですが、寇恂は、行大司馬として、

劉秀が河北に来ているのを知ると、耿況を説得して劉秀に降らせます。

 

そして、上谷の将兵を率いて劉秀に合流し、劉秀により偏将軍に任じられます。

その才能は、鄧禹も認め、主として食糧輸送の任に当たります。

この為に、前漢の䔥何(しょうか)になぞらえる事が多いようです。

将軍としても優秀で、劉秀の北伐の隙を突いた、更始帝の軍の攻撃を撃退して、

逆に洛陽まで追いまくるなど辣腕を発揮しました。

 

性格は法に厳しく、同僚の賈復の家臣を法に触れたとして容赦なく処刑、

その事で賈復と揉めますが一歩も引かず、劉秀が和解させています。

内政や外交でもマルチな才能を発揮し、任地に赴くと善政を施し

任期切れで帰っても百姓達から「また寇君をお願いします」と陳情が来る程でした。

 

エントリー№6 征南大将軍舞陽侯 岑彭(しんほう)

 

岑彭は南陽郡棘陽(きょくよう)の人で王莽の政権下では棘陽県の長でした。

しかし、乱が起きると棘陽は平林軍に落とされ、岑彭は命からがら、

家族を連れて、宛の太守の甄阜(しんふ)を頼ります。

ところが、甄阜は岑彭が最後まで棘陽を守らなかった事を責めて、

彼の父母を人質にして、岑彭を前線で働かせました。

やがて甄阜は戦死、岑彭が後を受けて宛を守備する事になります。

平林軍の劉玄は宛を包囲して持久戦に転じ、西暦23年、5月末、

兵糧が尽きて、人間同士で食うようになった宛は降伏します。

 

劉玄は、岑彭を殺そうとしますが、

大司徒劉縯(りゅうえん:劉秀の兄)は、

 

「太守である以上は、任された城を守るのは当然の事です、

今は小さい罪を問わず、有能な士をどんどん登用する時期です、

そうすれば敵は争って降るでしょう」と進言します。

 

更始帝は、これを入れて岑彭を助命しました。

 

以後、劉縯の配下として岑彭は活躍しますが、更始帝と対立して

劉縯は殺され、岑彭は後任の大司馬朱鮪(しゅゆう)に仕えました。

しかし、潁川太守として、任地に赴く途中、更始帝に反旗を翻した

劉秀の配下の武将の劉茂(りゅうも)が潁川を落とし、

行き場がない岑彭は、河内太守韓歆(かんきん)を頼っていきます。

 

西暦25年劉秀が皇帝に即位すると、廷尉になり、そのまま帰徳侯を受けます。

この時期、岑彭ら十一将が更始帝側の将軍、朱鮪の守る洛陽を包囲し、

数月して降せずにいました。

 

考えた光武帝は、かつて朱鮪の部下だった岑彭に朱鮪を説得させます。

朱鮪は劉縯殺害と劉秀の河北への転出妨害のため劉秀に恨まれていることを

畏れて降伏しませんでしたが、劉秀は

「大事の前の小事だ兄の死も朕を妨害した事も咎めはしない」

と岑彭に朱鮪の爵土を保証しこれによって朱鮪は投降します。

 

その後、韓歆共々、劉秀に降り取り立てを受け将軍として活躍します。

かつて劉秀の兄である劉縯の恩義を受けた事を忘れず、

劉秀の配下として活躍、兵才があり、声東撃西、金蝉脱殻などの

計略を鮮やかに決めますが、蜀の公孫述を討伐しようとした時、

公孫述の放った刺客に殺されました。

 

エントリー№7 征西大将軍陽夏侯 馮異(ふうい)

 

馮異は潁川(えいせん)郡父城(ほじょう)県の人です、

王莽の下で潁川郡掾を務めて父城にいましたが、時代を見る目があり

王莽の政治は続かない事を察知していました。

やがて、劉秀が潁川を攻略すると降伏しこれに従います。

 

その後、劉秀は兄を更始帝に殺された為に一度宛に戻りますが

馮異は、劉秀の軍が規律正しく略奪もしない事から、

これこそ天子の軍と確信し五城をまとめて、劉秀の帰還を待ちます。

 

その間、更始帝の配下の将軍が数十人父城に攻めてきますが、

これを巧妙に守り決して寄せ付けず、やがて戻った劉秀に対して開城し、

以後は配下になります。

 

邯鄲で漢の成帝の遺児を名乗った元易者の王郎との河北争奪戦では

劉秀の配下として戦い、初期は王郎に押され難民同然だった劉秀の為に、

暖かい豆粥や、兎の肉などを捧げて元気づけ、劉秀の深い信頼を得ます。

 

24年、劉秀が王郎の勢力圏の薊県から脱出するのに従い、

味方がいる信都郡に至ると、馮異は偏将軍を拝命し王郎軍を討伐します。

25年に劉秀が群臣に押されて光武帝として即位すると、鉄脛と称する

農民反乱集団を掃討し、かつ北方の匈奴の于林闟頓王を降伏させます。

 

たびたび手柄を立てる馮異を光武帝は孟津将軍にし寇恂を河内太守に任じ、

食糧の潤沢な河内を洛陽の劉玄軍三十万から防衛させました。

当時は慢性的な食糧不足であり補給に余裕がある光武帝の軍勢は

それだけ優位にあったという事でもあります。

 

馮異は洛陽の守将・李軼を内応させ、また洛陽の周囲の十数県を平らげて

十数万人を下し、さらに劉玄麾下の武勃の軍一万余、蘇茂の軍数万、

朱鮪の軍数万を破りました。

 

26年この頃、赤眉や延岑が三輔(長安の周辺の地域関中など)に出現、

郡県の豪族も兵をウジャウジャ蓄えていて関中攻略の主将鄧禹は、

これらにてこずり平定できませんでした。

そこで劉秀は馮異を鄧禹と交代させることとします。

馮異は光武帝の期待に応え、弘農の群盗で将軍を自称する者十数人を降した上、

華陰で赤眉の将兵五千を降伏させました。

27年、鄧禹に代わり征西大将軍を拝命します、

鄧禹と合流した馮異は、赤眉軍が数が多い事から、黽池に駐屯していた劉秀軍とともに

赤眉軍を挟撃することを提案したが勝ちに逸る鄧禹はこれを拒みます。

馮異はこれを抑える事が出来ず、押し切られて鄧禹と馮異の軍は赤眉に大敗し、

鄧禹は僅かな手勢で逃げ延びますが、馮異は敗戦しながら兵をまとめて

兵数万を呼び戻して再戦し大勝して赤眉軍の八万を降伏させました。

 

それに乗じて延岑ら軍閥を撃ち八千を投降させ延岑を

武関から南陽に敗走させて見事に関中を平定させてしまいます。

 

28年、蜀の公孫述の兵数万が関中に侵入しますが馮異はこれを迎撃して破ります。

公孫述、その後もしばしば関中を攻めますが馮異はこれをことごとく

打ち破り入れませんでした。

 

30年、天水の軍閥、隗囂(かいごう)が、公孫述に侵攻しようとする漢軍と交渉決裂し、

結果、劉秀に背いて公孫述の配下になります。

そこで馮異は隗囂の部将を破って北地郡の豪族を降し同時に

北地太守を兼任することとなりました。

さらに天水の北東に拠る青山胡一万余を受降し、安定郡の盧芳(ろほう)、

匈奴の薁鞬日逐(いくけんにっちく)王の軍を撃破し、

上郡・安定郡を降し安定太守をも兼任します。

 

33年、祭遵(さいじゅん)が没したため、征虜将軍を兼任して部隊を率い、

天水太守も兼任し、隗囂の息子である隗純を援護する公孫述の将、

趙匡(ちょうきょ)らを攻めて一年ようやくこれを討ちます。

 

さらに隗純を攻めるが、ここでは勝てませんでした。

激務で馮異はかなり健康を損なっていたようで、諸将は一度帰還して

兵を休めることを進言したが馮異は容れず常に先鋒を務め戦います。

そして34年、夏、隗純を攻める軍中で病死して、節侯と諡されました。

 

 

馮異は読書を好み、思慮深く、軍は規律厳正で自身も功を誇らず、

仲間が手柄話をすると、その場を離れ、大きな樹の下に腰掛けて

静かに過ごし配下からは大樹将軍と呼ばれ慕われました。

敵軍も馮異に対しては続々と降ったと言われます。

 

エントリー№8 建義大将軍鬲侯 朱祜(しゅこ)

 

朱祜は南陽郡宛の人で劉秀や劉縯の幼馴染みです。

父を早く亡くし、母方の実家である復陽の劉氏を頼って引っ越し、

ここで劉秀と親しみました。

 

南陽劉氏が豪族の権限を制限する王莽の政治に反発して軍を起こすと、

劉秀や劉縯に従って従軍、やがて、豪族の連合である平林軍と農民反乱軍の

赤眉が連合して長安を落とすと、平林軍の劉玄が推されて皇帝に即位します。

そこで、劉縯は大司馬に任じられ、朱祜は護軍都尉(ごぐんとい)になります。

 

しかし、劉玄は扱いやすいボンクラとして皇帝に選ばれた男で、

即位すると、評判通りの贅沢三昧を開始、そして度々諫言する、

かつて皇帝位を争った劉縯を誅殺します。

危険を感じた劉秀は、河北征伐の命令が出たのを幸いに長安を離れ、

行大司馬として朱祜を護軍都尉として用います。

 

朱祜は、河北平定では骨身を惜しまず働き手柄を立てます。

西暦25年劉秀が光武帝として即位後、背いた鄧奉(とうほう)に敗れ捕虜になりますが、

劉秀が鄧奉を親征すると、朱祜は鄧奉に説いて降る事を勧めます。

こうして鄧奉は降伏しますが、岑彭と耿弇は光武帝に処刑を上奏し、

鄧奉は処刑されてしまいました。

 

朱祜は謙虚で素朴な性格で、戦いとは首級を増やす為でなく城を平定する事だ

として、力攻めを避けて計略を用いた他、略奪を厳禁にしました。

その為に血の気が多く、略奪を楽しみとする兵士に憎まれたと言います。

 

晩年は匈奴に備えて南行唐に駐屯しますが、39年に洛陽に帰還して、

馬成と交代します、西暦48年に死去しました。

 

エントリー№9 征虜将軍潁陽侯 祭遵(さいじゅん)

 

祭遵は潁川郡潁陽県の人です、家は裕福でしたが贅沢を慎んだ質素な生活でした。

ある時、地方の役人が祭遵を侮りたかると、彼は賓客と協力して役人を殺します。

それまで周囲の人々は祭遵を大人しい人だと思っていたのですが、

この事があり、かなり遠慮するようになったようです。

 

西暦23年、劉秀が昆陽の戦いで、たった三千の兵で四十万の王莽軍を撃破し、

潁陽を通過する事がありましたが、役人だった祭遵は、ここで劉秀の幕舎を

尋ねて何度か話合いをし、その容姿と態度を気に入った劉秀は祭遵を採用しました。

 

河北遠征に出向いた劉秀軍で祭遵は軍市の令になりますが、ある日、

劉秀の一族の子供が法を犯したので、これを殴り殺しました。

怒った劉秀は、祭遵を捕えますが、側近の陳副(ちんふく)が

 

「祭遵は、このように法を犯すものは、誰でも容赦しないので、

自然に人々は法を恐れ秩序は安定するので御座います」

 

と言ったので祭遵を許して、これまで通り仕えさせました。

 

劉秀は諸将を集めて、

「祭遵は同僚だから少しの法令違反なら許すだろうなどと考えるな、

私の一族の子まで彼は殺した、君達なら尚更逃れられぬぞ」

 

と注意を喚起したと伝えられています。

 

西暦26年、征虜将軍を拝命しますが、祭遵は儒者だったので、

その兵士も儒者を採用し常に規律正しく、兵舎でも漢詩を作り、

投壷(とうこ)などを楽しむ者がいて、とても兵には見えなかったそうです。

 

ただ、戦闘では勇敢で、敵の矢が口に当たっても怯まず、

怯える部下を叱り飛ばして督戦したので、

部下は奮い立ち、負けていたのが勝った勝負もありました。

 

エントリー№10 驃騎大将軍櫟陽侯 景丹(けいたん)

 

景丹は馮翊(ひょうよく)櫟陽(れきよう)の人です。

若くして長安に学び、王莽政権下では、固德侯国の相、

朔調連率(さくちょうれんりつ)の副貳(ふくに)(旧上谷郡太守の次官)などを務めます。

しかし、王莽の政治が民心を得ていないと悟ると、西暦23年、

更始帝の軍勢に降伏し、耿況と共に上谷郡の長史となります。

 

耿況は景丹、耿弇、寇恂の雲台二十八将の3名を劉秀の元に派遣し、

劉秀は景丹を偏将軍とし、精強な烏桓突騎(うかんとっき)を率いさせ

王郎軍を撃破、景丹は河北征伐に大功を立てる事になります。

 

西暦25年、劉秀が光武帝として即位すると、

驃騎大将軍に任命され櫟陽侯として封じられます。

この頃、五校という農民反乱軍がいましたが、景丹は、

呉漢、耿弇、朱祜、賈復、馮異、陳俊(ちんしゅん)、王常(おうじょう)、

臧宮(ぞうきゅう)達と共に討伐に当たり、河南で五万の兵を下したと言います。

 

翌年、病に罹りますが光武帝のたっての要請で病身を押して

弘農の賊を討伐に向かい到着してから10日後に病死しました。

断らない景丹も悪いですが、一種、光武帝のパワハラのような

感じもする最後でした。

 

エントリー№11 虎牙大将軍安平侯 蓋延(がいえん)

 

蓋延は漁陽郡要陽の人で、土地柄、烏桓に近いので勇壮な人物が多い場所です。

この蓋延も身長184センチで66キロの引きの弓を引けました。

彭寵が漁陽の太守になると、その営尉に任じられ護郡都尉を兼ねます。

同じ土地に雲台二十八将の第二位、呉漢もいました。

 

やがて、河北で元易者の王郎が、前漢成帝の遺児を詐称して独立すると、

蓋延は呉漢達と謀り、行大司馬の劉秀の配下に入ります。

 

同郡の呉漢・王梁、更に上谷郡の将景丹、寇恂、耿弇と共に、

王郎の軍を撃ち、広阿で劉秀の軍勢と合流すると、手柄により列侯に封じられ

転戦して河北を平らげました。

西暦25年に劉秀が光武帝に即位すると虎牙(こが)将軍に任じます。

26年、光武帝の即位を認めず、天子と号した梁王、劉永(りゅうえい)を、

馬武(ばぶ)、劉隆(りゅうりゅう)、馬成(ばせい)、王覇(おうは)の

四将を従えて包囲しました。

 

戦いは劉永が死んだ後も、子の劉紆(りゅうう)を立てた周健(しゅうけん)、

蘇茂(そも)、董憲(とうけん)が必死に抵抗して続きますが、

29年には劉紆が討たれて終結しました。

 

蓋延は、武人らしい単純な男で、上役の来歙(らいきゅう)が

蜀の公孫述が放った刺客に襲われ虫の息になると悲しみから泣き叫んでしまい、

「これ!女子供のように泣かれては後事を託す事も出来ないぞ」と叱責されたり、

かと思えば、敵を侮り深追いしては敗北し光武帝に叱られたり、

その軍勢にも粗暴な振る舞いが多く、度々諫言されています。

 

エントリー№12 衛尉安成侯 銚期(ちょうき)

 

銚期は潁川郡郟(きょう)県の出身です、身長190センチ以上という巨漢で、

義理に厚く異様な雰囲気を漂わせていました。

西暦23年、劉秀が潁川父城を降した時に城主であった馮異が、

「節義があり、至って真っすぐな男です」と劉秀に紹介して配下になります。

 

西暦24年、邯鄲の王郎が前漢、成帝の遺児を名乗って独立すると

薊(けい)の人々は王郎に従い、劉秀の身は危うくなります。

そこで、劉秀は馬車で脱出しますが道にはそれを阻止しようという

王郎勢力の兵が殺到していました。

 

銚期は、この時騎兵として従っていましたが、

眦(まなじり)を裂かんばかりに目を剥いて槍を振り回して

 

「頭が高い!控えおろう!!」と怒鳴りました。

 

それに怯えた王郎の兵士は道を開け、劉秀は逃げ延びる事が出来たのです。

 

逃げ延びた劉秀は銚期を鄧禹の属官にし、鄧禹は銚期の才能を見抜き、

属官の中で唯一、これに二千の兵を与え偏将軍にしています。

銚期は河北では、王郎討伐に功績を上げ、農民反乱軍、銅馬軍の兵、

数十万を苦戦しながらも倒し、北上してきた赤眉軍も敗走させました。

銚期は剛胆でありながら、降伏した城に対しては略奪する事もなく、

また、光武帝にも、へつらう事なく言うべき事は、きっちり諫言するなど

勇気と信義と忠義を兼ね備えた武将でした。

 

エントリー№13 東郡太守東光侯 耿純(こうじゅん)

 

耿純は、鋸鹿(きょろく)郡宋子の人です。

父の耿艾(こうがい)は王莽の新体制の中で済平尹になり耿純は長安に遊学しました。

しかし、王莽の新王朝は、平林軍と赤眉軍の連合に敗れて崩壊、

皇帝に即位した平林軍の劉玄(更始帝)は、李軼(りしつ)を派遣し

降伏勧告をしたので耿艾は降り斉南太守になります。

 

耿純は、李軼に諫言した事がありますが、それに李軼は見どころがあると見て

騎都尉とし離反した趙と魏を平定させようとします。

河北に来た行大司馬の劉秀が邯鄲に入ったのを耿純は見舞い、

更始帝の軍にしては珍しく略奪などの後がない事を知り感心して、

贈物などを贈り関係を深めようとしました。

 

劉秀は耿純を邯鄲に留めて自身は北伐に向かいますが、

西暦23年12月、易者上がりの群雄、王郎が自身を前漢の成帝の遺児と

詐称して軍を起こし劉秀を殺そうとします。

 

反乱は上手く行き、耿純も賞金が懸ったので故郷の宋子に戻ります。

このままでは劉秀が危ないと見た耿純は一族郎党を引き連れて劉秀を捜しまわり

盧奴にいると突き止めると、そこに行き王郎の反乱を告げました。

 

そこから劉秀は辛酸を舐めますが、なんとか受け入れてくれる信都郡にたどり着きます。

一方で耿純は一族郎党をまとめて育県にて劉秀を迎えました。

 

窮地にあった時に一族を束ねて、背かせず、全て劉秀に合流した耿純は、

王郎を破るのに大きな手柄を立てます。

また天下の平定後は、高位に昇るより地方官になりたいと各地の太守を歴任し

彼が治める土地は、どこもあっと言う間に良くなったそうです。

 

エントリー№14 城門校尉朗陵侯 臧宮(ぞうきゅう)

 

臧宮は、潁川郡郟(きょう)の人です、若くして県の亭長になり、

王莽の政治の混乱の中で賓客を率いて束ねるようになり

下江の兵の中に入り兵の尉に抜擢されました。

 

劉縯の説得で下江の兵は漢兵(劉玄の兵)と連合し臧宮は劉縯の弟の

劉秀の配下として幾つも城を落とす手柄を立てます。

 

西暦25年、劉秀が即位して光武帝になると臧宮を侍中、騎都尉にします。

27年、南陽郡の鄧奉が呉漢の軍の略奪に腹を立てて反乱を起こすと、

臧宮は光武帝の親征の軍に加わり烏桓突騎を率いて祭遵と共に、

更始帝の将左防、韋顔を涅陽、酈に破り、さらに臧宮は岑彭に従いて鄧奉を

小長安に追い、群雄の一人秦豊(しんほう)を討ちます。

 

臧宮は勢いに乗って兵を率いて江夏を攻略し、鍾武、代郷、竹里を陥落、

その功積から輔威(ほい)将軍を拝命しました。

 

西暦35年、年春、公孫述討伐のため、臧宮は、蓋延、岑彭 呉漢、劉隆、

劉歆(りゅうきん)と共に出陣、輸送のための船頭を徴発し荊門に集結します。

岑彭は巴郡を下し、降兵5万を臧宮に預け、平曲に上らせつつ、自らは電撃戦を敢行、

これにより臧宮は平曲を守り遂には公孫述の将、延岑破りますが、

ところが肝心の岑彭は公孫述の刺客に倒れて、一時攻略は頓挫、

全軍は呉漢に引き継がれ崩壊を免れます。

 

臧宮が平陽郷に到った所で公孫述の将王元(おうげん)は降り、

更に進軍し綿竹を落し、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢(かい)を斬って、

更に攻めて繁、郫を陥落させ、遂には呉漢と共に公孫述を滅ぼす大手柄を立てます。

 

光武帝は蜀が定まった所で、臧宮を広漢太守としました。

39年には、辺境から中央に召集され、朗陵侯、太中大夫を拝命します。

 

臧宮は勇猛果敢ですが、普段は思慮深く寡黙な人で、そういう大人しい人が

好きな光武帝に好かれます。

しかし、一方では常勝将軍らしく好戦的な部分があり、匈奴討伐を献策しては、

光武帝に「国を傾ける危険な政策」と拒否された事もあります。

 

エントリー№15 捕虜将軍楊虚侯 馬武(ばぶ)

 

馬武は南陽郡湖陽の人です、王莽政権の末期に竟陵(きょうりょう)と西陽で

挙兵があった時に加わり緑林軍の兵となり、後に漢兵と連合しました。

更始帝が即位すると侍郎になり、劉秀と共に昆陽で王邑(おうゆう)、

王尋(おうじん)と戦いその手柄で振威将軍となりました。

 

邯鄲で王郎が前漢皇帝の遺児を詐称して反乱を起こすと、劉秀は、

更始帝が派遣した上役の謝躬と共に邯鄲を落としますが、

謝躬(しゃきょう)の軍は略奪が凄まじく、これを見た劉秀はムナクソ悪くなり

これを斬ろうとしますが、隙がありませんでした。

 

そこで、王郎の配下の馬武を懐柔しようと呼び出し、

 

私が保有している突騎兵は、あなたに率いてもらいたい」と言います。

 

馬武は「私はのろまで臆病、何の方策もありません」と辞退しますが、

 

劉秀は「あなたは将軍として熟達しています

未熟者の我が軍の将と同じでは御座いません」と持ち上げました。

 

以来、馬武は劉秀に好感を持ち、劉秀が謝躬を謀殺すると、

馬武はすぐに駆けつけて配下に加わりました。

 

馬武は酒好きで、酔うと相手の欠点をズケズケ言う悪癖がありましたが

人は良く他意がない為に光武帝は常に笑って許しました。

また、馬武は戦陣では、常に攻める時には危険な先鋒を引きうけ、

撤退する時には、死のリスクが高い殿を引きうけています。

 

ある時、光武帝は宴会で

「もし乱世が無かったらお前達は何になっていたか?」という事を

功臣達に聞いて回った事があります。

 

そこで、馬武は「私は腕っぷしがあるので、太守か都尉でしょう」

と答えると、光武帝は大笑いして

 

「無理だ、ムリムリ!取りあえず盗賊にはなるなよ。

もし亭長(最下級の役人)にでも成れたら大したもんだ」と言ったそうです。

 

ここでも馬武の性格の一端がうかがえますね。

 

エントリー№16 驃騎将軍慎侯 劉隆(りゅうりゅう)

 

劉隆は、長沙定王劉発(りゅうはつ)の子の一人である安衆康侯、

劉丹(りゅうたん)の子孫の安衆(あんしゅう)侯、劉㱈(りゅうきん)

劉崇(りゅうそう)の一族です、つまり遠縁ながら漢の王族です。

 

そのせいか、劉隆の父の劉礼(りゅうれい)は一族の劉崇と共に

王莽討伐の軍を挙兵しますが計画がばれて処断されました。

その時劉隆は7歳だったので助命されたようです。

長安で学び、王莽の王朝新が更始帝に倒されると、騎都尉に任命されます。

しかし、更始帝が贅沢に耽ると失望し、河内に劉秀が来ている事を知ると合流、

ここで改めて騎都尉に任命され、馮異と共に更始帝の軍と戦いを開始します。

 

このように劉秀が有名なのは、彼が昆陽の戦いで40万の王莽軍を撃破した

事実上の新王朝打倒の功労者である事や、彼の軍が規律厳正で略奪をしなかった

という理由もあります。

 

西暦28年には誅虜(とうりょ)将軍を拝命して淮南で挙兵した

李憲(りけん)を滅ぼし、35年には、公孫述を討伐していた岑彭の上書で

南郡太守になりました。

 

異民族討伐にも功績があり、41年には、中郎将に任命され、

伏波将軍、馬援(ばえん)の副将として交趾(ベトナム)の徴(ちょう)姉妹を撃ちます。

こうして妹の徴弐(ちょうに)を捕らえ首を斬る事千人余り2万人を降伏させました。

その後、帰還すると長平侯に封ぜられています。

 

エントリー№17 中山太守全椒侯 馬成(ばせい)

 

馬成は南陽棘陽(きょくよう)の人です、劉秀が穎川を掌握すると

馬成を安集掾(えん)とし、郟県の令代行に移します。

しかし、更始帝劉玄が劉秀の兄を誅殺し、邪魔者になった劉秀を

河北平定に向かわせると、とっくに更始帝を見限っていた馬成は

官を投げ捨てて荷を背負い徒歩で劉秀を追いかけ警備兵に採用されます。

 

西暦25年、劉秀が光武帝として即位すると、護軍都尉に移りました。

28年には、馬成は揚武将軍を拝命し、誅虜将軍、劉隆、振威将軍宋登(そうと)、

射声校尉、王賞(おうしょう)を率い淮南の李憲を討ちました。

馬成は李憲を舒において包囲し、諸軍に壕、防塁を設けさせて兵糧攻めにし

李憲が挑んでも防壁を固めて出ず、翌年には舒城の兵糧が尽きたのを見計らい

攻めに転じて李憲を滅ぼします。

 

32年には、光武帝の親征に従い、公孫述に寝返った

天水の隗囂(かいごう)を撃破、継いで天水太守になります。

 

39年に長年、西域を管理していた朱祜が朝廷に戻ると、馬成は代わりに

西域を監督し、前漢から王莽の混乱期に崩壊した防衛線の再構築を行います。

その範囲は西河から渭橋に至り、河上から安邑に至り、太原から井陘に至り、

中山から鄴に至る長さで保壁、狼煙台を築造し物見櫓を設置しました。

 

馬成は、北辺の民族にも、分け隔てなく接して善政を施し、

5~6年で一度は洛陽に帰還しましたが、何度も馬成将軍を戻して欲しいという

陳情が届いたので、再び、西域に移動する程でした。

 

エントリー№18 河南尹阜成侯 王梁(おうりょう)

 

王梁は漁陽要陽の人です、漁陽郡の下役人でしたが、王莽政権が倒れて、

太守が彭寵に代わると、才能を見込まれ孤奴(こど)県の令を代行しました。

劉秀が河北を平定に来ると、同僚の蓋延、呉漢と合流し偏将軍に任命されます。

西暦24年、邯鄲を支配していた王郎を撃破すると関内侯(領地無しの侯)

を拝命し、野王県の令になりました。

 

25年に、光武帝が即位すると、大司空に大抜擢され武強侯になりますが、

それは王梁の手柄ではなく神秘主義に傾倒していた光武帝が、

予言書を解釈してそうしたものです。

 

光武帝は極端な運命論者で、

 

「自分のような非才な男が皇帝になったのは、天の思し召し」と

謙虚に信じていて、このような神秘主義に凝り、面と向かって、

神秘主義をインチキと断じた家臣は処刑してしまった程でした。

 

26年、王梁は大司馬、呉漢と共同で農民反乱集団の檀郷を掃討しますが、

詔に反し独断で兵を二度動かしたため、光武帝はさすがに激怒し、

宗広(そうこう)を派遣して殺すように命じますが、

宗広は殺せず檻車で洛陽に送り、果たして光武帝は、王梁を許して

中郎将に任じ執金吾を代行しました。

その後赤眉軍の別働隊を降したり、軍閥の董憲の部将だった

龐萌(ほうぼう)を討つなど幾つかの手柄を立てていきます。

 

山陽太守から河南尹に移り、洛陽の運河増設工事を指揮しますが、

これが大失敗、弾劾されて罪に問われますが、光武帝が許し斉南太守に

左遷して事を治めました。

 

どうも、王梁は失敗や命令違反が多い割に、謙虚な人だったようで、

それが幸いして光武帝に処罰される事はありませんでした。

 

エントリー№19 琅邪太守祝阿侯 陳俊(ちんしゅん)

 

陳俊は南陽西鄂(せいがく)の人です、若くして役人になり

西暦23年に劉玄が更始帝として即位すると、宗室の太常将軍

劉嘉について長史になります。

劉秀が河北を攻略するにあたると、陳俊は劉嘉の推薦で県令を辞して、

劉秀の下で安集掾となりました。

 

劉秀に従い、農民反乱軍の銅馬軍や五校と戦い、

これを降すのに功積があり強弩(きょうど)将軍に任命されます。

 

その後の陳俊の人生は、農民反乱軍との激闘の人生になり、

26年には、河北、河南の農民軍を撃破し、強弩大将軍に任命、

河内、河南の農民軍を撃破、28年には河南、山東の農民軍を撃破します。

 

新末から後漢の初期は、各地に名前も数えきれないほどの農民軍が存在し

食う為に各地に侵攻を繰り返していました。

それも数千から時には数十万という規模になり、たかが農民兵とは

侮れない、かなりの強敵だったのです。

 

28年には、河南、山東の農民反乱集団を討ちとります。

当時、泰山周辺の諸豪を統率していた梁王劉永は張歩(ちょうふ)と連合していたので、

劉秀は陳俊を泰山太守に任じ、大将軍の兼行とし、陳俊は張歩軍を破って

泰山周辺を平定しました。

 

翌年には建威大将軍、耿弇とともにさらに張歩軍を破り投降させます。

琅邪郡がなお平定されていなかったため、陳俊は将軍のままで

琅邪太守に移され、梁王、劉永の残党で東海に割拠する

董憲らを平定しています。

 

陳俊は派手な活躍はありませんが、手堅い用兵で五校との戦いでは

馬から降りて剣一本で戦い、賊のリーダーが逃亡すると八キロも追いかけ

切り捨てて帰ってくるなど安定感がありました。

劉秀は、「将軍が全て陳俊のようなら何も心配はいらない」と感嘆しています。

 

エントリー№20 驃騎大将軍参蘧(さんぐ)侯 杜茂(とも)

 

杜茂は南陽冠軍の人です、劉秀が河北平定に出発すると馳せ参じ、

中堅の将軍として活躍しました。

西暦25年に劉秀が即位すると大将軍を拝命し、楽郷侯に封じられ、

河北の農民反乱軍の五校を打ち破るのに大きな手柄を立てます。

この時に五校の大将クラスを三十名以上降伏させました。

 

27年には、驃騎大将軍を拝命し、沛郡を撃ち芒を抜き29年には、

捕虜将軍だった馬武を率いて山東の劉永の残党である佼彊(こうきょう)を撃破します。

31年、漢の戦乱で動きを活発化させていた匈奴に備えて

山西の晋陽、広武で屯田兵を指揮しながら防衛を固めます。

 

33年、雁門太守・郭涼とともに盧芳の部将、尹由(いんゆう)を撃ちますが

盧芳配下の賈覧(からん)が匈奴の騎兵一万余を率いて援護した為に敗北します。

当時、盧芳は高柳に拠り、匈奴と連合してしばしば北辺の民を略奪していました。

 

光武帝は事態を重くみて、罪を許した刑徒を杜茂に与えて、北辺の警備にあて、

さらに人民を徴集して警備兵を置きつつ、見張り台や城塞、烽火台を築いて

防衛力を強化していました。

 

光武帝は、匈奴に財産を奪われた民に当てて、多くの物資を援助して、

贈物をしたので、士気は高まり、杜茂の配下の郭涼(かくりょう)が

盧芳の配下を破り追いつめられた盧芳は匈奴に亡命しました。

 

杜茂は、しかし、あまり清廉な将軍では無かったようで、

軍事物資を横領し部下に人を殺させた罪で食邑を減らされています。

順位が20番と下なのも、そこに関係しているのでしょう。

西暦43年に死去しました。

 

エントリー№21 積弩将軍昆陽侯 傅俊(ふしゅん)

 

傅俊は潁川郡襄城県の出身です、新王朝がまだ存続していた頃に

県の亭長をしていましたが、平林軍の劉秀が襄城を攻めた時に

これを迎え入れ校尉に任命されました。

 

しかし、襄城の人々は、傅俊が寝返った事を恨み、城の中にいた、

傅俊の母と弟を殺してしまいました。

天下分け目の昆陽の戦いでは、傅俊は王莽配下の王尋を破り、

大きな手柄を立て偏将軍になります。

 

劉秀は、家族を失った傅俊を憐れみ、一度、軍から外して、

家族の弔いをさせましたが、劉秀が河北攻略を始めると、

仲間数十人を引き連れて邯鄲で合流しました。

 

その後、西暦25年、河北を平定した劉秀が光武帝として即位すると

傅俊は洛陽まで評判の才女である陰麗華(いんれいか)を

光武帝の妃として迎える使者として出向いています。

 

傅俊は強い将軍でしたが、元の身分が低いせいか

軍規が厳しくない状態でした。

そこで光武帝は高名な儒者の郅惲(しつうん)を

参謀につけて楊州攻略に向かわせます。

 

そこで郅惲は、不意打ちをしない事、人の嫌がる事をしない事、

人の手足をもがない事、人の死体を晒さない事、女を犯さない事という

五つの戒めをしますが、傅俊の軍は守らず、墓を暴いては遺体を放置する

という悪行を繰り返しました。

 

郅惲は粘り強く諫言を繰り返し、ようやく傅俊が諫言に従うようになると

それまで激しく抵抗していた城が続々と帰順するようになったようです。

 

エントリー№22 左曹合肥侯 堅鐔(けんたん)

 

堅鐔は潁川郡襄城県の人です、元々は郡県の吏を務めていましたが、

劉秀が河北攻略を開始すると、彼を劉秀に推挙する人があり、

事務処理能力に長けた堅鐔を劉秀は主簿として使いました。

事務ばかりでなく指揮能力もあり、偏将軍となって大槍(たいそう)という

農民反乱集団の掃討などを行い、河北平定に手柄がありました。

 

西暦25年、劉秀が即位して光武帝になると揚化将軍を拝命し

濦強(いんきょう)侯に封ぜられ、諸将と共同で洛陽の劉玄軍攻略に参加した。

堅鐔には洛陽の守将が内応して、朱祜と共に洛陽の東門で勝利し

これを契機に劉玄軍の大司馬・朱鮪は投降します。

 

翌年には、万脩(ばんしゅう)と共同で南陽平定に向かい、

宛城の軍閥董訢(とうそ)を敗走させます。

ところが、光武帝の配下の鄧奉が、雲台二十八将の2位の呉漢の軍勢に

故郷の新野を略奪した事に怒り漢に背いて兵を挙げます。

さらに悪い事に万脩まで陣没したため、堅鐔は北を董訢、南を鄧奉に包囲され

孤立すること一年、兵糧を食べ尽くし野草で餓えをしのぐ羽目になりました。

 

絶対絶命の堅鐔でしたが、やがて光武帝の親征軍がやってきて

窮地から解放されます。

 

堅鐔は戦争では勇敢で敵襲に対し常に先陣を務め兵士の犠牲を出さず、

優れた統率力を発揮して部下に慕われました。

 

エントリー№23 上谷太守淮陵侯 王覇(おうは)

 

王覇は潁川郡潁陽県の人です、若い頃に獄吏という罪人を扱う下級役人になります。

王家は代々法律を治めた家柄でしたが、王覇は獄吏という地位を楽しまず、

父は、王覇が学問をしたいのだと感じ、長安に遊学させています。

 

西暦23年、更始帝が世直しを掲げて、潁陽に来ると、王覇は数十人の仲間と、

その配下に加わりました。

 

そこから北上して陽関に到ると、そこで百万を号する(実際は40万)の王莽軍が

現れたので昆陽まで引き、そこから劉秀と共に奇襲を掛けて

王莽配下の大司徒、王尋、大司空、王邑の兵を撃破します。

 

王莽軍は、これが致命傷になり、間もなく王莽は農民軍の赤眉に殺されて、

新王朝は15年という短命で滅びます。

 

王覇は、その後暫く、帰郷し、劉秀が行大司馬の地位で河北平定の為に

潁陽を通過すると、父に別れを告げ、その軍に合流しました。

西暦23年、劉秀は北を討伐しようと、薊県に向かっていましたが、

王郎はその隙を突いて挙兵して三百輌程度の戦車で邯鄲に入り、

前漢成帝の遺児、劉子輿(りゅうしよ)を名乗りました。

 

王郎は実は漢の皇帝の遺児でも何でもない易者あがりの偽物ですが、

人を騙すのが上手く、あっと言う間に周辺を支配していき、

劉秀に10万戸の食邑という懸賞金を懸けます。

 

これにより窮地に追いやられた劉秀一行は、

門を開けてくれる城もなく、飢えと寒さに苦しみます。

劉秀は北伐を断念して南に帰ろうとしますが、

その途中に虖沱河という河がありしかも舟がない状態でした。

 

後ろからは懸賞金に目がくらんだ王朗派の兵が迫りますが、

身を斬るような寒さの上に河に舟も橋も無い事で劉秀の軍勢は渡河を嫌がります。

 

ここで王覇は出まかせで

「ご安心を、河は凍結していて、歩いて渡れますぞ!」

 

と言い、劉秀一行を宥めすかして行軍を急がせます。

すると、口から出まかせの筈が河は実際に凍結していて、

劉秀の軍勢は、何とかほぼ全てが渡河に成功したのです。

 

翌24年、劉秀は任光(じんこう)が精兵4000で守る信都郡に入り

体制を立てなおし、王覇の手柄を顕彰して軍正という地位につけました。

やがて邯鄲の王郎は、続々と周辺城が劉秀に寝返る中で立場が逆転

最後には城を失い、逃亡中に死亡しました。

 

25年劉秀は即位して光武帝になり、王覇は偏将軍、翌年には、

富波侯になります。

28年には、捕虜将軍・馬武と共同で、群雄の1人の劉紆と配下の周建と蘇茂、

農民反乱集団の五校との連合軍を垂惠(すいけい)で討ち苦戦しますが破ります。

 

33年には、呉漢、王常、朱祜、侯進らの軍5万余人とともに、

北方に割拠する盧芳の軍を高柳に討ちますが盧芳には匈奴が援軍を

送ったため大苦戦します、王霸は上谷太守と共に屯兵を指揮し

上谷郡外での軍事行動も許されました。

 

翌年には、また呉漢ら四将軍の兵6万人や杜茂の軍勢とともに、

山西の北部に盧芳と匈奴の連合軍討ちます。

王覇は先鋒として時に戦果を挙げましたが、盧芳は討てませんでした。

 

長期戦となると考えた光武帝は詔により、王覇に免罪された受刑者

六千余人を率いて杜茂とともに道路を整備するように命じ、

代から平城までの120キロににわたり防塁を築造して襲撃に備えます。

 

王霸は上谷郡で二十余年を過ごし、その功積で淮陵侯に封じられますが、

59年に体調を崩し、職を辞してから数カ月で亡くなりました。

 

王覇には、同じ故郷出身の、臧宮、傅俊がいましたが王覇だけは、

兵士に対して慈しみがあり、負傷者は自ら看病するなどし兵に慕われました。

そこで、光武帝は王覇を偏将軍にし、臧宮、傅俊は騎都尉で

その配下にしたと言われています。

順位こそ、二人より下ですが、王覇の才能は二人に劣るものではなかったのです。

 

エントリー№24 信都太守阿陵侯 任光(じんこう)

 

任光は南陽宛の人です、もと宛の卿嗇夫、郡県の吏を務めていました。

劉賜(劉秀の族兄)に付いて安集掾、偏将軍を拝命します。

宛にいた頃、任光は、立派な服装をしていたので、劉玄の兵士に目をつけられ、

身ぐるみ剥がれて殺されそうになりますが、劉賜が助命したようです。

その後、昆陽の戦で劉秀と共に王莽配下の大司徒、王尋、

大司空、王邑を破る手柄を立てます。

 

西暦23年、平林軍の劉玄が更始帝を称して洛陽に至ると、

任光は信都郡の太守になりますが、更始帝はすぐに堕落して、

各地では群雄が独自の動きをするようになります。

 

劉秀が討伐に向かった河北では、元易者の王郎が趙の都である

邯鄲に入り勢力を増しこれに降る郡国が多くなりました。

 

任光の信都郡は、その動きには同調せず、劉秀の為に都尉の李忠、

令の万脩らと共に信都郡を守り、王郎の檄が届くと任光は使者を斬り、

精兵四千をもって信都に立てこもったと言われます。

24年、王郎の勢力である薊県から命からがら逃れてきた劉秀は

信都郡に入り、任光は功績から左大将軍を拝命し武成侯に封じられました。

ようやく拠点を得た劉秀は、ここから周囲の城邑を落とし王郎の本拠

邯鄲攻略の足掛りとしています。

 

26年、任光は、武成侯に代えて阿陵侯に封ぜられ、食邑一万戸を得ます。

これは鄧禹に匹敵するかなり大きな領地で、それだけ信都郡を死守した事が

大きな功績だと考えられたのでしょう。

 

29年、洛陽に召されて朝請を奉じますが、同年冬に死去しました。

もう少し長生きしていれば、もっと順位が上昇したかも知れません。

 

エントリー№25 予章太守中水侯 李忠(りちゅう)

 

李忠は東萊黄の人です、前漢の末年に高密国の郎になり、

王莽の時代に信都郡の尉になります。

平林軍を率いた劉玄が更始帝を名乗ると、それに仕え信都郡の都尉になります。

河北を攻略していた劉秀が王郎の決起で追いつめられ薊県から南下すると、

信都郡の守将の李忠と万脩、任光は王郎に降る事なく精兵4000を配備して、

戦い劉秀が降りてくるのを待ちました。

 

その後李忠は右大将軍に任命され、武固侯に封じられ、

鉅鹿の王郎軍に対する包囲戦に参加します。

信都郡が王郎の勢力下に入ると、更始帝軍と共に、それを奪い返しに向かい

信都郡の代太守になりますが、やがて戻った劉秀が信都郡を奪還し、

李忠は元通りの都尉に戻りました。

河北攻略戦では当初、劉秀は王郎に虚を突かれて苦戦続きで食糧も物資も不足し

劉秀の配下の将でも、略奪をしない軍はありませんでしたが、

ただ李忠のみは略奪をせず、劉秀はそれを顕彰して自分の衣服と馬を与えています。

 

西暦26年に代わって中水侯に封じられ、同時に五官中郎将に任命され、

山東の軍閥、龐萌や董憲らを平定します。

 

30年には丹陽太守に移り、長江、淮水流域の沿海部に土着する農民勢力を討ち、

散らばって流浪していた住民の定住化と教化戸籍登録に務めていきます。

結果、墾田は拡大し、戸籍に登載された流民は三年間で五万戸にのぼりました。

 

38年には、三公が李忠の治績は天下第一である旨上奏、

戦いではなく、流浪している農民をまとめて土地を与えて定住させ、

国家の基礎固めに尽力した事が評価されます。

 

その後に予章太守に異動し、病により引退、43年に死去しました。

 

エントリー№26 右将軍槐里侯 万脩(まんしゅう)

 

万脩は扶風茂陵の人です、劉玄が更始帝となり王莽を降した頃に、

信都郡信都県の令になったとあります。

西暦24年、邯鄲の王郎に追われ、薊県から逃れてきた劉秀を信都太守の任光、

都尉の李忠とともに迎え入れました。

 

後に偏将軍を拝命し、造義侯に封ぜられ、王郎の本拠である邯鄲を破ると

右将軍に任ぜられ、河北平定に功を挙げました。

 

光武帝が即位した25年、大司馬呉漢に率いられた十一将の一人として、

更始帝配下の朱鮪の守る洛陽を包囲作戦に参加し、

翌26年には造義侯に代えて槐里侯に封ぜられ、堅鐔と共に南陽平定に参加しますが、

宛の豪族の董訢に加え、南陽の鄧奉も私怨から漢に離反し、

征伐軍は、双方に挟まれ1年以上も周囲から孤立する事になります。

万脩は、その絶望的食糧不足の中で気を病んで病気にかかり死去しました。

 

幸い堅鐔が頑張って耐え抜き、光武帝の親征で賊は撃破されました。

 

エントリー№27 太常霊寿侯 邳彤(ひとう)

 

邳彤は河北信都の人です、王莽の政権下で和城太守を務めていましたが、

更始帝により河北に派遣された劉秀がやってくると下曲陽にこれを迎えて、

和城太守に再任されました。

 

やがて、邯鄲の王郎が、前漢の成帝の遺児を詐称して独立すると、

その勢いは燎原の火のようで、劉秀が下した城もことごとくが

王郎に付いてしまいその領地は燕と趙を合わせた程になりました。

しかし、邳彤が守る和城と、任光、万脩、李忠が守備する信都郡の2つは

従わず、王郎軍の攻撃に耐えていました。

 

そうして、包囲された劉秀が、ようやく南へ逃げてくると、邳彤は

2000名の精兵を派遣して劉秀を守り、信都で合流します。

その功積で邳彤は和城太守と後将軍を兼任し、西暦24年、

邯鄲を包囲して王郎を破ると武義侯に封じられました。

 

西暦25年、代わって霊寿侯に封ぜられ、大司空の代行を務め、

劉秀が洛陽に入ると太常を拝命しすぐ少府に転じました。

同年、左曹侍中に移り常に劉秀に従軍して戦いに参加していましたが、

30年に封国の霊寿に移って同年死去します。

 

劉秀が信都郡に戻った頃、郡臣には、王郎を置いておき、

一度長安にもどるべしという意見が大多数でした。

しかし、邳彤は

 

「民衆にとっては漢の復活は希望なので王郎を放置してはいけません

もしこれを放置すればあなたに希望を持っている城は全て王郎に降り

王郎は河北を完全に平定し、三輔を動揺させてしまうでしょう」

 

と主張して譲らず、劉秀は邳彤の意見を容れ、王郎攻撃を継続しました。

この決断は正しく王郎を倒した劉秀は、河北を平定して基盤にし、

その後のライバル討伐の足がかりを得たのです。

 

エントリー№28 驍騎将軍昌城侯 劉植(りゅうしょく)

 

劉植は鉅鹿昌城の人です、西暦23年王郎挙兵の時、弟劉喜(りゅうき)、

従兄弟劉歆(りゅうきん)と共に宗族賓客を率い、兵数千人を集めて

昌城を拠点にしました。

24年、王郎の追手から免れ、薊県から逃れてきた劉秀を迎えると、

その手柄で驍騎将軍を拝命しています。

 

当時、王郎麾下の真定王、劉楊(りゅうよう)は兵10万を擁していて大きな勢力でした。

劉秀は、この劉楊を味方に付ければ、王郎とのパワーバランスを覆せると考え、

劉植を使者として説かせ、これにより劉楊を引きこむ事に成功します。

劉秀は、郭聖通(かくせいつう:劉楊の妹の夫、郭昌の娘)との縁組みをし、

10万の劉楊の勢力を取り込む事に成功します。

 

これは、劉秀が王郎の本拠、邯鄲を破り河北を平定するに役立ちます。

劉秀が光武帝に即位した翌年の26年、昌城侯に封じられますが、

同年、河南・密県で賊の掃討にあたっている途中に戦死しました。

 

劉植の兵と号の驍騎将軍は弟の劉喜が引継ぎ、劉喜が亡くなると、

従兄弟の劉歆が更に引き継いでゆく事になります。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがだったでしょうか?雲台二十八将を全て紹介してみました。

正直、このメンバー紹介を全て読んだら光武帝の時代の事は大体分かると思います。

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

はじめての三国志:全記事一覧はこちら

関連記事:あの光武帝がダジャレ大好き!?初陣で早くもギャグをかます劉秀に萌え

関連記事:【3分で分かる】光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の華麗な生涯

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 




 

kawauso

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三度の飯の次位に歴史が大好き

10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、

好きな歴史人物:

西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc

何か一言:

歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。

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