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この記事の目次
董卓、張奐に従い、東羌と先零を撃破する
羽林騎に任官したその年、東羌(とうきょう)と先零(せんれい)の掠奪がヒドイので、朝廷は護匈奴(ごきょうど)中郎将の張奐(ちょうかん)に命じて討伐させます。董卓は司馬として、尹端(いんたん)と共に討伐し、敵の領酋を斬って騒乱を鎮めました。
この時、討伐軍は張奐が宦官の機嫌を取らなかったので讒言され恩賞が出ず、董卓は個人的に貰った絹九千匹を配下の兵に配り感謝されています。以後、董卓は広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己(せいいき・ぼき)校尉と昇進して免官になり再び、召し出され、并州刺史、河東大守から、中郎将になり黄巾(こうきん)の乱を迎えます。
中郎将は、光禄勲に属していて、五官、右、左、羽林、虎賁と5名いますが、羽林騎で入った董卓は1800名の羽林騎を統率する羽林中郎将になったのかも知れません。
羽林騎の時代に董卓は霊帝が大嫌いになった?
並はずれた体力を有していた董卓ですが、やはり騎兵を扱い理不尽な朝廷の命令を受けながら辺境で戦うのは相当な不満があったようです。
献帝春秋(けんていしゅんじゅう)という資料には、少帝を廃位して陳留(ちんりゅう)王を立てると言った時に、それに反対した袁紹(えんしょう)と言い争ったとされるセリフが残っています。
「天下の主は賢くないとダメなのだ、あの霊帝を思いだすと毎度腹が立つ
ああいうボンクラはダメだ!それに比べると董侯(献帝)は、まあまあだ。
少なくとも史侯(少帝)よりはいいんじゃあないか?
まあ、ガキの時は良くても大人になったらどうか分らんが、その時はそれよ。
劉家の種なんか、いつまでも大事にする事はなかろう」
随分、横暴なモノ言いですが、霊帝を思いだすと腹が立つというのが印象的です。
これは、羽林騎の時代から、霊帝を近くで見て知っていて、コキ使われたという
恨みがこもっているのではないでしょうか?
もっとも献帝春秋は史書に誤りが多く、裴松之(はいしょうし)が酷評していますから、どこまで真実かは分りません。しかし、事実として少帝は廃され、袁紹は都を去っているので、似たような事は発言したのかも知れませんね。
三国志ライターkawausoの独り言
董卓は武帝が組織した名誉の騎兵隊に所属して手柄を立てますが、あまり報われた思いが無かったようです。なにより、あのボンクラの霊帝がボスですから、まともに辺境対策も出来ず危険な現場を何度も経験して、しだいに霊帝に憎悪を持ったかも知れません。
もしかして、少帝は父親に顔が似ていて、なお腹が立ったというような個人的な好き嫌いもあったのかも知れません。
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