後漢の末、涼州は馬騰(ばとう)や韓遂(かんすい)、辺章(へんしょう)のような
群雄が度々蜂起して危ない土地でした。
それは、もちろん政治が腐敗して王朝の官僚機構が上手く機能しなくなり、
異民族を抑える力が落ちた為ですが、それに加えて、涼州に送られる刺史という
刺史が、揃いも揃ってボンクラだった事もあります。
今回は、全員更迭間違いなしの涼州のダメ刺史を4連発で紹介しましょう。
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この記事の目次
賊を討伐すると集めた軍資金を横領、左昌
後漢書の蓋勲(がいくん)伝によると、中平元年、すなわち西暦184年、
黄巾の乱の時の涼州刺史は、左昌(さしょう)という人物でした。
しかし、この左昌、金儲けにしか目がない明らかな腐敗官僚でした。
吸い上げた軍資金から、相当額を抜き取り、自分の懐に入れてしまう始末。
見かねた部下の蓋勲が諫言すると、「うるさい」とばかりに辺境に飛ばし、
ろくに軍勢もつけずに戦わせようとします。
こんなゲスな刺史がいつまでも地位に留まれる筈は無く不正を告発され
あっさりクビになってしまいました。
心が荒んでいる人には道徳の本を配れ!宋梟
次にやってきた涼州刺史は、宋梟(そうきゅう)という人物でした。
悪人ではありませんが、この人は人畜無害で品行方正な「だけ」の人物。
荒れ果てている涼州の有様を見て、心を痛めてしまいます。
「ああ、なんという事だ、民がお互いに争うのは、きっと道徳を知らないのだ
夫婦は仲良く、年寄りを大切に、朋友は信頼しあえば、必ず争いは消える
そうだ、一家に一冊、孝経をプリントして配り、朗読会をさせなさい」
それを聞いた部下の蓋勲、開いた口がふさがりません。
「畏れながら、それは、余りにも、のんびりし過ぎでは」
と、やんわりと諫言しますが、こういう人は無能な癖に頑固なので
言いだしたら聴きゃしません。
「いや、、争いは良くない、孝経を配る準備をするのです。
朝廷には私から計画を上奏します」
宋梟より上奏を受けた朝廷は、余りの危機意識の無さに
全員が呆れかえり、許可を出す代わりに宋梟をクビにしました。
なんだか知らないけど、いつの間にか首に・・楊雍
この宋梟の次は、今度こそ、ちゃんとした刺史をと思う所ですが、
やってきた楊雍(ようよう)も、やはりパッとしなかったようです。
ほどなく首になるのですが、その前に蓋勲を漢陽郡の大守にします。
功積といえば、この程度のものでした。
特筆すべき記述がないのは、何もしなかったという証明です。
ろくに訓練もしないで戦いに行き戦死 耿鄙
次にやってきた涼州刺史は、耿鄙(こうひ)と言い血の気が多い人物でした。
就任するや否や、「よし賊を討伐するぞ、兵を集めよ」と大乗り気です。
そこで傅燮(ふへん)という部下が、それを諌めます。
「ろくに訓練もせず、親しんでもいない軍勢を率いて討伐など無謀です
まずは、異民族に対して柔軟に対処しながら油断をさせて、仲間割れを誘い、
その間に、こちらは訓練をして時期を見て攻め込めば労せずして勝てます」
傅燮の助言は、外敵がいないと仲間割れを繰り返す遊牧民の特性を
利用した見事なものでしたが、脳筋の耿鄙は聴く耳がなく、
大軍を興して、金城という所に攻め込み、大敗して戦死しました。
三国志ライターkawausoの独り言
このように、4代に渡り、奇跡的にボンクラ刺史がやってきた結果、
涼州は完全に危ない無法地帯に落ちてしまいました。
やがて、辺章や韓遂が10万人規模の大反乱を起こしてしまい、
曹操(そうそう)が鐘繇(しょうよう)を司隷校尉(しれい・こうい)として派遣し
涼州軍閥の力を削ぐまで、涼州は後漢の火薬庫として揉め続けるのです。
でも、宋梟みたいな人、今でもいますよね。
若者の心が荒んでいるのは道徳を知らないからだとか何とかで
やたらに道徳教育を強調する人、それが悪いとは言いませんが、
原因は他にもありませんかね。
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