蓋勲(がいくん)とはどんな人?霊帝に信頼され董卓が恐れた硬骨漢

2017年3月12日


 

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蓋勲(がいくん)陳寿(ちんじゅ)の三国志には登場しない人物ですが、

南朝宋の時代の人物である范瞱(はんよう)が書いた後漢書五十八巻の

虞傅蓋臧(ぐふがいぞう)列伝に登場します。

つまりは、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)と同時代を生きているのですが、

正史三国志には出てこないので、まるっきりスルーされている人物なのです。

ですが、この蓋勲、カットされるには惜しい逸話の持ち主で霊帝に信頼され、

董卓(とうたく)が恐れて殺す事が出来ない人物でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

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おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

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二千石取りの中堅官僚の家柄に産まれる

 

蓋勲は字を元固(げんこ)と言い、敦煌広至の出身です。

代々大守を出している中堅官僚の家で、曾祖父の蓋進(がいしん)は漢陽太守。

祖父の蓋彪(がいひょう)は、九卿の一つ大司農にまで累進していました。

 

蓋勲は、はじめに孝廉で推挙されて漢陽郡の長史になりますが、

ここで早速トラブルが発生します。

 

近くの武威郡の大守が、悪名高い、宦官、仲常侍を親戚に持つ男で、

権勢をかさにきて悪事を好き放題に行っていたのです。

本来、こういう事を止めるべき涼州刺史の梁鵠(りょうこく)は

中常侍の報復を恐れ、何もしようとしませんでした。

 

蓋勲、私情よりも公を優先して蘇正和を庇う

 

武都の蘇正和(そせいわ)は、武威郡の大守の汚職を憎んで摘発しようとしました。

それを知った涼州刺史は、恐れて、蘇正和を殺して全てをうやむやにしようと

長史の蓋勲に相談しました。

 

実は蓋勲と蘇正和は犬猿の仲であり、これを機に蘇正和を殺してしまえと

蓋勲に焚き付ける仲間もいたのです。

 

しかし蓋勲は「ダメだ、善良な人を殺してしまうのは忠義ではないし、

他人の危機に便乗するのは仁愛ではない」と断じ、梁鵠を説得して、

蘇正和を処断するのを思い留まらせました。

 

蘇正和がお礼を言いに来ると、無視する蓋勲のツンデレ仕様

 

命拾いをした蘇正和は、自分を助けてくれたのが蓋勲だと知って感謝し、

長年の遺恨を水に流してお礼を言う為に漢陽郡に来ました。

ところが、蓋勲は

「俺は貴様を救う為にやったのではない、正義を行おうと思っただけだ

勘違いをするな、お前の事は今でも大嫌いだ!」

 

と罵倒するだけで、とうとう会いませんでした。

 

汚職刺史、左昌に諫言して辺境に飛ばされる・・

 

中平元年、西暦184年、黄巾の乱が勃発、涼州でも辺章(へんしょう)のような、

軍閥が横行したので、刺史の左昌(さしょう)は軍資金を徴発しますが、

こいつが悪いヤツで、軍資金から数千万銭を仲抜きして自分のポケットに入れました。

初動が遅れた為に、辺章の賊が大きくなり、すべては後手に回りました。

 

蓋勲は、刺史の不正を諌めますが、疎ましく思った左昌は僅かな軍勢を与え

蓋勲を賊軍討伐に向かわせます。

もし、失敗したら責任をおっかぶせて殺してしまおうという考えでした。

 

左昌、自分が賊軍に包囲されると、蓋勲を呼び寄せる

 

蓋勲の軍勢は少数精鋭で強いので、よく戦いましたが、

刺史の仲抜きのせいで兵が足りずに賊軍を抑え込む事は出来ず、

とうとう金城の郡守陳懿(ちんい)を殺害されてしまいます。

 

蓋勲は「援軍を出して金城を奪回すべし」と伝令を出しますが、

軍資金をポッケに入れる事しか頭にない刺史は黙殺します。

 

ところが因果応報と言うべきか、辺章の賊軍は刺史がいる冀(き)城を包囲したのです。

自分が包囲されると、刺史は血相を変え蓋勲に「戻ってこい」と伝令を出します。

本当に虫の良い男ですね。

 

蓋勲と共に行動していた、従事の辛曾(しんそう)、孔常(こうじょう)は

伝令に難色を示します。

辺章が怖いというのもありますが、「あんなバカ刺史の為に死にたくない」という

個人的な感情もあったのかも知れません。

 

すると蓋勲は激怒し、

「これは刺史への私事ではない、冀城を救わんが為である!

なおもグズグズするなら、軍令に照らし刀の錆びにするぞ」と脅したので、

二人は恐れて冀城に兵を向ける事になります。

 

辺章、蓋勲の言葉に城の包囲を解いて去る

 

辺章の軍は大軍でしたが、蓋勲は構わずやってきて、

その不忠を詰りすぐにも降伏するように勧告しました。

すると辺章は、以下のように言います。

 

「残念なことだが無理だ、左刺史が軍資金を懐にせず、

早々に討伐軍を送れば我々も降伏したであろうが遅すぎた・・

もはや、多くの悪事をなし過ぎて降伏しても縛り首だ。

だが、あんたの顔に免じて、城の包囲は解いてやろう」

 

こうして、冀城の包囲は解かれ、左昌は助かりますが、

まもなく軍資金の使いこみが朝廷にばれて、首になりました。

 

宋梟が文教を持ちだすので蓋勲、呆れかえる

 

左昌の次には、扶風の(ちっぷう)の宋梟(そうきゅう)が刺史になりますが、

この人は清廉でも、現実に対応する能力がないボンクラでした。

 

「涼州が乱れているのは、孔子の有り難い学問をする人がいないからだ

よし孝経を筆写して、各戸に配り勉強会を開くのだ。

きっと、騒乱は収まり涼州は平和になるだろう」

 

それを聴いて、現実を知り抜いている蓋勲は開いた口が塞がりませんが

相手は上司ですから、バカとも言えず、こう諭しました。

 

「斉は多くの学者を擁した国で、魯は孔子の故郷ですが、どちらの国でも、

権力の纂奪が起きております、これは両国に学者が少ないからでしょうか?

涼州の騒乱については、それを鎮める手立てがないわけではないのに、

こんな珍奇な事をすれば混乱は一州に留まらず、全国に波及しますし

本気で上奏すれば、天下のモノ笑い、メリットはありませんぞ」

 

しかし、得てしてこういう人は頑固で融通がききませんで、

宋梟は、自分のプランを朝廷に上奏すると霊帝より詔がきました。

 

「汝はアホか?只今の騒乱を鎮めるには武威に頼るより他ない、、

大きな反乱を鎮圧し、お上の強さを知らしめてから後が文教の仕事ぞ

汝のような無能者は見た事がない首にする」

 

こうして、目出度く?宋梟は首になってしまいました。

 

羌族に攻められ窮地に陥るが、羌族騎兵に救われる蓋勲

 

宋梟が首になった後、叛乱した羌族が畜官で護羌校尉(ごきょうこうい)

夏育(かいく)を包囲しました。

蓋勲は州郡の軍兵を集めて夏育の救援に向かったものの、

狐槃(こばん)で羌族の軍団に撃破されてしまいます。

 

それでも蓋勲は逃げようとはせず、敗残兵百人余りで魚麗の陣を敷きます。

そこへ羌族の精鋭騎兵が猛烈な挟撃を掛けて数多くの兵が戦死、

蓋勲も三ヶ所に傷を負いますが、まったく動揺しませんでした。

 

死を覚悟した蓋勲は、自分を葬る墓標代わりの木の板を地面に突き刺して

「諸君、ワシが死んだら、必ずここへ葬ってくれよ!」と遺言します。

 

句就種の羌人である滇吾(てんご)は昔から蓋勲に可愛がられていたので、

途中でたまらなくなり、武器で人々を制止しながら言うには、

 

「蓋長史は賢者なり、この人を殺せば、それは天に叛く行為ぞ!」

 

しかし、それを見ていた蓋勲は、滇吾を怒鳴りつけました。

「黙れ!死に損ないの蛮人め、貴様らなんぞに俺の何がわかる!

構わないから、さっさと殺せ、殺さんかァ!」

 

ええーっ、また蓋勲がツンデレ・・しかし滇吾は、めげずに

さらに自分の馬を蓋勲に与えて逃げるように促しますが、

蓋勲はココで死ぬと言って聞かず、とうとう羌族に捕えられてしまいます。

 

しかし、一連の蓋勲の行動を見ていた羌族は、すっかり敬意を抱いてしまい、

殺す事なく蓋勲を漢陽郡に送り届けました。

これにより後任の刺史楊雍(ようよう)は、直ちに上奏して

蓋勲を漢陽太守に推挙しました。

 

蓋勲、率先して自分の家の蔵を開き、貧民を救う

 

その頃、大乱続きで涼州は荒れに荒れ、食糧さえ事欠いた人々は

お互いに隣家に入り、食糧を探すような有様でした。

大守になった蓋勲は、富裕な家が食糧を放出して救う事に決めますが、

それをケチって、食糧を放出しない富豪がいました。

 

「それは、私の罪だ、私の不徳の致す所だ」

 

蓋勲は、率先して自分の家の蔵を開いて、食糧を出したので、

富豪たちは粛然として自発的に蔵を開いて食糧を放出し、

千名以上の人々が飢死から救われたと言われています。

 

涼州の戦功を称えられ、何進と蹇碩が蓋勲を見送る

 

漢陽太守になった、蓋勲ですが、新任の刺史の耿鄙(こうひ)が

無謀な戦争を挑んだので、大敗を予感して、大守を退いて故郷に帰りました。

しかし、伝説的な戦いぶりは洛陽まで聞こえていて、すぐに呼び戻され、

武郡大守となります。

霊帝は詔を下して、大将軍何進(かしん)と西園八校尉(せいえんはちこうい)の

蹇碩(けんせき)が洛陽から蓋勲を見送り人々は名誉な事だと噂しました。

 

蓋勲、霊帝に本当の事をズバリと言う!

 

ところが、蓋勲が武都に着く前に再び辞令が出て、

彼は討虜校尉(とうりょ・こうい)になって洛陽に戻り霊帝と会う事になります。

 

のう、元固よ、何故、下々の者は、度々反乱を起こすのか?」

何も知らないボンクラ皇帝、霊帝は無邪気に言いました。

 

「それは、陛下の寵愛する者どもの子弟が混乱を起こしているからです」

蓋勲は一切、遠慮する事なく答えます。

 

「ほお、そうか!蹇碩?元固が言う事は真実か?」

 

霊帝は向き直り、たまたま、その場に居合わせた仲常侍蹇碩に質問します。

蹇碩は顔面蒼白になり、「はあ、それは、恐れながら・・はあ・・」

しどろもどろになり、うろたえる事しか出来ませんでした。

 

さらに霊帝は、最近造った近衛兵、西園八校尉の自慢をして聞きます。

 

「朕は、かつて平楽観に軍を閲兵して、蔵を開いて財宝を与えたが、

それをどう思うか?」

 

「私は先王は、その徳を広めるのに軍隊を観なかったと聞いております。

また、賊軍は遥か遠くにありますのに、都の近くで閲兵しても無意味であり

あたら武勇を熟れ腐らせるだけでありましょう・・」

 

遠慮会釈のない蓋勲の言葉でしたが、霊帝は嬉しそうな顔をします。

 

「素晴らしい、君に会うのが遅すぎたのが残念である、、

朕の群臣は、あんなにいるのに、一人もそんな事言わなかったよ」

それから、霊帝は、蓋勲に全幅の信頼を寄せ、軍事の件では、

何でも蓋勲に相談するようになりました。

 

蓋勲、宗正、劉虞、左校尉、袁紹と宦官討伐の密約を結ぶ

 

この頃、蓋勲は、宗正の劉虞(りゅうぐ)、そして左校尉の袁紹(えんしょう)と

共に近衛兵を統御していました。

そこで、三名集まった時に蓋勲は、このように持ちかけます。

 

「私の見る所、陛下は大変に聡明であられる、しかし、左右の者が悪く、

思う所を為す事が出来ないのだ、この際、奸賊を誅殺して賢良の士を招けば、

漢の再興を見届け、引退するもの愉快な事ではありませんか?」

袁紹も劉虞も密かに宦官を除く事を考えていたので意気投合し、以後、

密会を繰り返すようになりますが、その頃、司隷校尉(しれいこうい)の

張温(ちょうおん)が蓋勲を京兆尹(けいちょういん)に推挙したので、

計画を実行する前に蓋勲は異動になります。

 

献帝は蓋勲が長安に赴くのを残念がりますが、蹇碩が熱心に勧めるので

渋々従う事になります。

 

長安でも相変わらずの蓋勲節が炸裂!

 

京兆尹になっても蓋勲は、まるで変わらず仲常侍の父がいる事を良い事に

ワガママ放題の長安県令、楊党(ようとう)が1千万銭を着服していると知ると、

早速、捜査に入り周辺が止めるのも聞かずに、父親もろとも都に上奏します。

しかし、蓋勲を信じている霊帝は、捜査にGOサインを出したので楊党も、

仲常侍の父も首になり、長安からは一時、不正が一掃されました。

 

さらに、蓋勲は皇太子の劉弁(りゅうべん)がお気に入りの高望(こうぼう)と

いう男を孝廉に取り立てるように蹇碩を通して依頼を受けましたが、これを無視しました。

ある人は「そんな事をしては、恨みを集め、やがて我が身を滅ぼしますよ」と

忠告しますが、蓋勲は笑って言いました。

 

「賢臣を推挙するのは国の為です、皇太子の為ではない、、

バカを推挙しないで済むなら本望、何を恐れる必要がありましょう」

このようにやりたい放題の蓋勲ですが、それでも殺されないのは、

霊帝が蓋勲を信頼し、讒言に耳を貸さなかったからのようです。

蓋勲の元には、常に霊帝より宸筆(しんひつ:直筆)の詔勅が届き

重要案件の相談がありました。

 

霊帝崩御、董卓がやってくるが蓋勲の態度は変わらず

 

蓋勲を最期まで信頼した霊帝は189年の四月に崩御しました。

その後、何進と仲常侍の後継者を巡る争いがあり、その後何進の暗殺、

袁紹による宦官の皆殺しを経て、混乱の洛陽に董卓が入城します。

この間、蓋勲は長安にいたので、混乱を把握する事は出来ませんでした。

 

しかし、董卓がいよいよ、何皇后を殺し、少帝を廃して献帝を立てると

厳しい詰問の手紙を董卓に送りつけます。

 

「前漢の霍光(かくこう)将軍は非常措置により皇帝を変えた事があったが、

それでも肝を冷やし、生涯、専横と言われぬよう身を慎まれた。

あなたのような、程度の低い醜き男がどうして霍光将軍のマネが出来ますか?

因果はあざなえる縄のごとし、今日の幸福が過日の凶事ではないと、

誰に断言できましょう?少しは慎みなされ!!」

(おがっ!なんだコイツ、オラが怖くないズラか? おっかねェェ)

 

横暴だが小心な所がある董卓は、手紙を読むと恐れを抱き、

蓋勲を長安には置けないと考え議郎として洛陽に召喚しました。

自分の目に届く所で監視しておこうと考えたのです。

 

董卓相手でも、軽くしか頭を下げない蓋勲・・

 

洛陽は董卓の恐怖政治に怯え、九卿から庶民まで董卓の意向を恐れない者は

ありませんでしたが、蓋勲だけが例外で、どんな時でも董卓を前に軽い会釈しかせず

居合わせた群臣は、皆、いつ董卓が怒りだすかと冷や汗をかいていました。

 

董卓は蓋勲を持てあまし、重職につけても長い間は赴任させず、

役職をたらいまわしにして常に警戒していました。

董卓の蓋勲を恐れる事は、この通りだったのです。

 

朱儁に凄んだ董卓を叱りつけ、ついに謝罪させる

 

ある時、河南尹の朱儁が董卓に軍事の説明をしていると董卓が怒りだします。

 

「おがっ!おめえ、オラをバカにしてるっぺ!

オラァ、いつでも戦えば百戦百勝イメージ通りに勝ってきたずら。

あんまし怒らせると刀の錆びにすっぞ!!」

 

怒る董卓に蓋勲が、噛みつきました。

 

「これは異な事を、、かつては名君の誉れ高い殷の武丁(ぶてい)でさえ、自らへりくだり

私に誤りはないかと聞いた程ですぞ、それをあなた程度の凡人がうぬぼれて、

家臣を脅迫して、口を閉じさせようとは、いかなる料簡ですかな?」

 

「う・・冗談ずら、、ちょっとからかっただけだっぺ」

 

ギクッとした董卓が、全て冗談にして済まそうとしますが蓋勲は引きません。

 

「ほお、、からかっただけですか、、私は寡聞にしてどなり声をあげてまでの

からかいというモノを聞いた事がありませぬ」

 

董卓は、とうとう、朱儁に謝罪したという事です。

暴君、董卓に謝罪をさせた人物など蓋勲を除いていないでしょう。

そんな蓋勲は、間も無く五十一歳で背中に腫物が出来て死去しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

蓋勲は、董卓が大嫌いであり、死後、董卓から贈物があっても

受け取るなと家族に遺言を残しています。

早くに死んでしまった蓋勲ですが、長安に飛ばされず洛陽に残っていれば、

優柔不断な袁紹を抑えて、近衛軍を動かし董卓の暴政を制していたかも知れません。

しかし、それも含めて、運命というものなのでしょうね。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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