後漢王朝の名士としてその名を轟かせながら官吏に就くことがなかった王烈(おうれつ)。
彼は董卓が権力を濫用して好き勝手やり始めると遼東(りょうとう)へ逃亡。
その後は商人として生きていくことになるのですが、
一体どのような人物なのでしょうか。
三国志の人物の中でもかなりマイナーな武将・王烈についてご紹介していきたいと思います。
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学生の中でもトップクラスの人材に
後漢の名士としてその名を轟かせていた陳寔(ちんしょく)。
彼の元には大勢の名士と言われる人々が門下生として学問を陳寔から教わっておりました。
王烈も彼の門下生の一人でした。
彼は勉学に励んで各地の名士達が集う陳寔門下生の中でも、
トップクラスの成績を収めることになります。
そのため彼の名声は中国の津々浦々まで響き渡ることになり、
彼の事を知らない人はいないほどの人材に成長するのですが、
父親が亡くなったことをきっかけに郷里に帰って喪に服すことになります。
民衆のために貯蓄を分け与える
王烈は父の喪が開けると郷里は飢饉に苛まれており、
村中の人々は食べるものがなく自らの子供を喰らうような状態でした。
彼は郷里の惨状を目にすると自らが蓄えていた貯金を全て食物に使い、
郷里の人々へ分け与えることにします。
この結果、王烈の郷里の人々は飢えることがなくなり飢饉の悲惨な状態から脱することになります。
また彼は郷里の人々のために学校を立てて、自らが教師として学問を教えていくことにします。
村人たちは皆彼が立てた学校へ行き、勉学を学んだことによって村から争いごとがなくなり、
飢饉や戦乱のために民衆の心が荒んで争いごとばかりしていた当時の中国において、
王烈の村だけは見違えるような状態になります。
盗人に布を与えたそのワケとは
王烈の村では一切盗人や争いごとが無くなったはずでしたが、
一人の村人が住民の牛をパクってしまいます。
しかし村人の協力によってすぐに牛をパクった盗人は捕縛され、
王烈の元へ突き出されることになります。
すると王烈はこの盗人に対して布を1反与えて帰してしまいます。
村人は王烈のこの行動に驚き「どうして盗人に布を与えたのでしょうか。」と質問。
王烈は「この盗人は自分が犯した罪をしっかりと反省しており、
私に悪事を知られないか心配していたそうではないか。
盗人がしっかりと良いことに励めるように私は応援するつもりで布を1反あげたのだ」と説明します。
この行動が後に効果を表すことになります。
老人の代わりに荷物を運ぶ
王烈の村の老人は重い荷物を担いで村に帰っている途中でした。
そんな時、ある若者が老人の荷物を代わりに持って、老人の家まで持って行ってくれました。
老人は大いにこの人へ感謝して名前を聞きましたが、この人は名前を教えずに去っていきます。
なんと老人に優しくしたのは○○であった
王烈の村の老人は帰る途中に剣を落としてしまいます。
道に落ちていた剣を拾った人はこの剣をおとした人物へ届けたかったのですが、
持ち主がわからないためどうすればいいのか途方にくれてしまいます。
彼は道に剣をおいておとした人物が戻ってくるまで剣が落ちていた場所で見張ることにします。
老人は剣を落とした場所に見当付けていたので、その場所に戻ってみると剣が落ちておりました。
しかしそこには以前荷物を運んでくれた人物がおり老人は急いでその人物の服を掴んで
「以前あんたに助けてもらったが、名前を教えてくれなかった。
今回は絶対に教えてくれ。わしの村の村長である王烈に話をしておくから」と
言って無理やりその人物の名前を聞いて王烈に報告します。
王烈はこの人物を大いに褒めてその人物がどこに住んでいるのか調べさせると
なんと昔村に侵入してきて牛をパクった人物であったのです。
王烈は盗人が改心したことを自分の事の様に喜び、
役所へ手紙を送って彼に褒美を与えるように指示を出したそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
王烈はその後董卓の乱を避けるために村を捨てて遼東へ逃亡し、
この地で名士の名を捨てて商人として生活していくことにします。
曹操は王烈の名前を聞くと彼を招くために使者を幾度も送りますが断っていたそうです。
曹操の招きに応じることなく遼東で亡くなった名士・王烈をご紹介しました。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など
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