ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志あれこれ」のコーナーです。
今回は前回に引き続き三国志の終焉の様子について触れていきます。
三国「魏」「蜀」「呉」の中で最も早く滅んだのが蜀になります。
西暦263年のことです。劉備が建国して約40年の月日が過ぎていました。
ひとつの国が40年で滅ぶというのは何か不思議な感じがしますね。
日本の歴史と大きく違うのは、これが政権交代ではなく、国が変わるということです。
この感覚は日本人にはないかと思います。日本では天皇はずっと天皇です。
あくまでも替わるのは政治を司る幕府だったり政府です。
天皇制が廃止され、日本ではなくなるというのはイメージできないですね。
ここが日本と中華の全く異なる点ではないでしょうか。
前回記事:三国志の結末(最後)ってどうなるの?
蜀の二代目皇帝
劉備の跡を継いだのが息子である劉禅です。
評価はどこでもだいたい同じですね。一言でいうと「暗愚」。
劉禅のせいで蜀が潰れたという話はよく聞きます。
劉禅についてはまた今度じっくりと語りたいので、今回はあまり触れません。
蜀の滅ぶ時の皇帝が劉禅だったということだけは確認しておきたいと思います。
ちなみに劉禅の側近は宦官の黄皓(こうこう)でした。かなり信頼はされていた人物です。
もちろん蜀崩壊のきっかけを作ったのが黄皓みたいなものですから後世の評価は最低です。
黄皓は蜀が滅亡した後、賄賂によって生き延びたという説と、
五体を切り刻まれて処刑されたという説の正反対のふたつがあります。
劉禅はきっちり生き残り、寿命をまっとうしました。
無血開城という決断
無血開城といえば、日本では江戸幕府が滅ぶときの姿を連想します。
このとき15代将軍徳川慶喜は謹慎しており、陸軍総裁の勝海舟が官軍の西郷隆盛と交渉。
江戸城を開城し、降伏することで、江戸に住む民150万人の命を救いました。
潔く降伏することで無駄な血を流さずに済むことは、互いにとって得のある話ではあるのですが、
やはりここには武門の意地があります。
戦わずに降伏するなど恥であると考える人も多くいたのが現実です。
無血開城はなかなか難しい決断といえます。
このとき、成都に迫っていたのは魏の鄧艾軍でした。
魏の他の部隊は成都から遠い剣閣という要衝で蜀の名将・姜維に足止めをくらっている状態です。
鄧艾はかなりの強行をして陰平から山間の険路を越えて、
江油に出ましたが、兵糧は尽きようとしていました。
蜀は籠城すればまだまだ勝機があったともいえます。
しかし劉禅は降伏するのです。
二度の恥辱
このとき劉禅を説き伏せたのが蜀の名士・譙周(しょうしゅう)です。
譙周は劉禅に三択で迫ります。
ひとつは南への逃亡。こちらのリスクは異民族が多い点です。
いつ魏に内応して反乱するかわからない状態でした。
ひとつは呉への逃亡。おそらく快く受け入れてくれるはずですが、
そうなると劉禅は皇帝ではなくなり呉の臣下となります。
勢いにのった魏がさらに呉を滅ぼしたとき、劉禅は再度この恥辱を味わうことになるのです。
恥辱を一度にするために、譙周は最後の提案をします。
それが魏への無血開城でした。
劉禅は大いに悩みますが、結局、魏に降ることを決断します。
蜀の臣
蜀の臣のリアクションはどうだったのでしょうか。
姜維のような最後まで徹底抗戦を主張するものもいます。
劉禅の息子の劉諶は祖先の廟で自刃して果てました。
しかし多くの臣や民がほっとしたのではないでしょうか。
彼らにとって主が誰かなどさほど問題ではないからです。
それよりもこれで戦争がなくなり、平穏が訪れることに希望をもったかもしれません。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
以前も書きましたが、蜀の臣や民には魏に降り合併されることを望んでいたものが多かったようです。
もしかすると劉禅もそうだったかもしれませんね。
無益な戦いに意義を見い出せないひとは今も昔もたくさんいたのではないでしょうか。
皆さんはどうお考えですか。
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