ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志の文化を探る」のコーナーです。
現代では情報の伝達手段はほとんどがインターネットですね。メール、LINE、FacebookやTwitterなど世界中のどこにいようと情報を交換することができるようになりました。凄いことですね。三国志の時代の人たちがこれを見たらどう思うのでしょうか。
劉禅は確実にはまっていたと思います。そして部屋から出てこなかったことでしょう。しかし残念ながら三国志の時代にはインターネットは普及してはいませんでした。
えー!!って驚くゆとり世代の人たちもいそうですが。三国志の時代にはメールもLINEも無料通話もないんです。いいねボタンもありません。どうやって生きていくんだろう?と不思議がるひともいると思いますが、なくても生きていけます。
私の大学時代はポケベルでした。それでも充分に恋人に気持ちは伝えられました。恋ができたら生きていけます。ちなみに三国志の時代にはポケベルもありません。ポケベルって何?って質問もしないでください。今回の話と関係ないので。
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だって紙もまともになかったんだよ
後漢の時代に紙が発明されます。しかし紙の役割はもっぱら何かを包むことです。完全に情報伝達の手段として紙が用いられるのは三国志終焉以降になります。5世紀ぐらいです。ですから三国志の時代は、竹簡や木簡、帛を主として使用しています。携帯電話が普及する前にポケベルを使っていたような感じですね。
ちなみに一部の文化人の間では紙を手紙として活用していたそうです。合肥の戦いで呉の武将である周魴が魏の総大将・曹休に送った偽装降伏の文は「紙」だったと記録されています。
蜀を攻めた鍾会(鍾繇の息子)は手紙に書かれた筆跡を真似るのがとても上手く、二度も手紙の偽造を行っています。三国志の後半期には手紙はかなり出回っていたということでしょう。
紙は持ち運びに便利
別に竹簡でも紙でも伝わればいいじゃん。って思う人もいるでしょう。確かに手紙ぐらいの文章量であれば大差がありません。あとは自己満足の世界ですね。私は時代の先端をいっているから紙を使う。みたいな。紙の方が草書は滑らかに書けたそうですし。しかし、問題は書物です。文章量はかなり多くなります。
それを竹簡に記して残していたのではかなりかさばりますね。後漢の役人で呉恢が交州の南海太守に任じられたときに「経書」だけでも持っていこうとしたら馬車二台分になって諦めたそうです。それを考えたら現代は凄いです。軽いタブレットを持ち運べばどこにいてもどんな情報でもあっという間に引き出せます。
それでも竹簡から紙に変わったのは大きな変革です。書物は軽くなり、持ち運びが便利になりました。
早速曹丕が孫権に書物を送る
流行の先端をいっている魏の皇帝「文帝」(曹丕)は早速、自分の著書を各地に送り付けます。「典論」というものです。おそらく文章の量はかなりのものだったのではないでしょうか。
曹丕はこの典論を紙に写させ、呉の張昭に送っています。感想は不明です。本当に読んだのでしょうか。曹丕が凄いのは呉の孫権にも送っていることです。この時は紙ではなく白絹(素)に写して送ったそうです。上品ですね。孫権の感想も不明です。きっと読んでいないと思いますよ。
曹丕は紙を使用して百科全書も編纂しています。「皇覧」という名前です。中華ではこのような百科全書を「類書」と呼ぶそうですが、史上初の類書は曹丕が編み出したのです。曹丕って紙好きだったんですね。現代のSNS大好きなひとと同じかもしれません。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
で、タイトルの話になりますが、14世紀に生きる羅貫中はその辺の時代考証がわからず話を書いたようです。三国志演義には紙に印刷された書物が出てきたりするとか(ありえない!)
後世のひとがそこは修正していますが。皆さんはどう感じますか。
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