三国志では教えてくれない洛陽と長安の秘密

2017年4月12日


 

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三国志に登場する二大都市、洛陽(らくよう)と長安、前漢では長安が帝都となり、後漢では洛陽が帝都となったので、前漢を西漢、後漢を東漢と言う事もあります。しかし、三国志演義、そして正史三国志を見ている限り、どうして、長安と洛陽が

 

 

漢帝国の都に選ばれたのか?なかなか分らないでしょう。はじさんでは、三国志では教えてくれない洛陽と長安の秘密を解説します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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洛陽と長安が都になった理由1 堅牢な山に守られている

 

 

洛陽と長安の周辺は地図で見ても分かる通り、盆地で大きな山に取り巻かれています。洛陽の北には邙(ぼう)山、南には伏牛(ふくぎゅう)山があって侵入が難しく平地は細くなっていて、そこに函谷関(かんこくかん)、虎牢関(ころうかん)の二つの要塞を置けば、どんな大軍が来てもビクともしません。

 

※ちなみに汜水関(しすいかん)は、虎牢関の一部で別々の存在ではありません。

 

祁山、街亭

 

おまけに、この盆地は、黄河に運ばれた肥沃な土があり、農業生産性が高く、渭水(いすい)や洛水という河が流れているので灌漑も可能です。ここに籠っていれば、関が落ちない限り百年でも守れたのです。

 

秦の首都である咸陽(かんよう)は長安の西にあります。秦はこの肥沃な土地を守り函谷関を厳重にする事で、戦国の覇者になりました。楚の項羽(こうう)が紀元前206年に咸陽を陥落させるまで、至強の六国合従軍でさえ函谷関を破れなかったのです。

 

 

 



洛陽と長安が都になった理由2 黄河の氾濫の影響を受けない

荒れる黄河

 

いかに、肥沃な土地で周囲が山に囲まれていても黄河が氾濫すれば、ひとたまりもありません。黄河が黄色いのは、シルトと呼ばれる微細な泥が入っているからで、それは黄土高原を通過する時に、水の中に大量に混入して黄河をコーヒー牛乳のような色に変えてしまいます。

 

つまり、黄河が氾濫すると、溢れるのは水だけでなく破壊力抜群の土砂もなのです。この土砂により、氾濫の経路にある都市も畑も消滅してしまう事になりました。しかし、洛陽と長安がある盆地は、黄河を挟むように山脈が存在していて、黄河氾濫の被害から、都を守ってくれるのです。

 

この地域には、夏王朝の遺跡ではないかと言われる、二里頭(にりとう)遺跡や、殷の初期の都である偃師(えんし)商城、東周の都などが次々と置かれました。そして唐代には、長安が帝都とされるなど繁栄をつづけたのです。黄河の氾濫がないので文化の蓄積が、そのまま継承されたのも大きいでしょう。

 

 

洛陽と長安が都になった理由3 シルクロードの玄関

三国志 シルクロード

 

洛陽と長安が都になった理由は、長安がシルクロードの玄関にあたるからでもあります。前漢時代にシルクロードが開かれるよりも前から、この袋小路のような盆地は東西の商人が東と西を往来する重要なルートでした。

 

華北平原は、黄河の大氾濫の繰り返しで、山が削られて造られました。肥沃な土地と黄河の支流として多くの河川が産まれ、経済の中心地となります。それらの富は洛陽に流れ込んで行き、洛陽は経済的に繁栄します。逆に長安は、シルクロードからの交易品と関中から羌族のような勇猛な騎馬兵を補給する軍事拠点の意味合いを強くしていました。

 

軍事と経済、この袋小路のような盆地には、国家を支える二つの要素が集まり他と替える事が出来ない魅力を持っていたのです。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

繁栄した洛陽と長安ですが、奇しくも後漢末の騒乱で華北の人口が南下し江南の開発が進んでいくと華北平原と取って替わり穀倉地帯としての華南の地位が上昇。6世紀の隋(ずい)の南北統一と大運河の建設により華北の政権を江南の生産力が支えるシステムが構築された事で、まず西過ぎた長安が廃れ、次に江南の物資の中継地点として栄えた洛陽も唐王朝が没落すると、東の開封が江南からの物資の中継地点として繁栄して、取って替わられ、北宋王朝は開封を首都にします。以後、洛陽と長安は、省みられなくなり、歴史上の古都となっていきました。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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