知っていたら自慢できる!正史三国志に足りない部分とは?

2017年4月17日


 

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陳寿(ちんじゅ)が書いた三国志は、魏志、呉志、蜀志から構成されています。

簡潔で無駄を省いた名文と言われていますが、実は、陳寿の三国志には

足りない部分があり、それが後世の歴史家を悩ましているのです。

今回のはじさんは、その部分を解説致しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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それは、三国志という名前に理由があった・・

 

陳寿が記した三国志に存在する致命的な欠陥、それは、まさに

三国志という名前に現われています。

よく見てみると、三国志以前の歴史書である史記や漢書には、志という言葉が

使われていません、後漢書や、唐書、宋書のような歴史書もそうです。

では、どうして、三国志だけが「志」なのでしょうか?

 

志とは、こころざしではなく、本紀や列伝以外のアラカルトを意味する

 

「三国志は、、呉、蜀、三国のこころざしを書いたものだから三国志だ!」

 

もし、そう思っている人がいたら、残念ながらブーです。

キャー、もう恥ずかしい、かくいうkawausoも最近までそう思ってまちた!

それは無理もないです、実際にそう書かれている本もあるのです・・

 

では、三国志の「志」とは、本当はどういう意味か?それは以下で説明します。

 

歴史書と言うのは、歴代皇帝の事蹟を記した本紀と群臣を記した列伝が

二本柱でこれを総合して「紀伝体」と言います。

しかし、実際には、これだけでは、抜け落ちる情報が多いのです。

それは、当時の祭祀や天文や地理、礼儀や音楽というような項目でした。

 

ですので、歴史書は、紀伝体以外のそういう部分を志と称して載せています。

例えば、漢書には、礼学志、律暦志、食貨志、郊祀志、天文志、刑法志など、

10項目の志が掲載されています。

 

これでお分りでしょうか?志とは、紀伝体以外のその時代の情報をまとめた

アラカルトの項目を意味しているのです。

 

陳寿が志を付け加えなかった理由は何故?

 

一般の歴史書は、ちゃんと志の部分を持っています、なので

部分にも「志」、全体でも「志」になるのはオカシイので「書」になっているのです。

ただ、三国志には、紀伝体しかないので、志でも混同が起きません。

だから、数多ある歴史書の中で三国志だけが「志」になりました。

 

では、どうして、陳寿は志を書かなかったのでしょうか?

一般的には、三国志が国に命じられて書いた歴史書ではなく陳寿個人の仕事である

という事が挙げられています。

自分の私書なのだから、通常の手続き通りに書く必要はないという事です。

 

もう一つの理由は、陳寿の性格に起因するもので、陳寿は人の言葉は、

それが無意味な長広舌でも克明に記録するのに、歴史の事実や因果などを

記したモノ、そして上奏された建議等は、ほとんど記していません。

 

例えば、屯田制を建議した棗祇(そうぎ)について、陳寿は内実を詳しく記す事はなく、

陳寿が生きていた頃には機能していた九品官人法の仕組みについても、

完全にスルーしているのです。

 

これを見ると、陳寿は人には関心があり、色々記録したが、祭祀や刑法、

社会システム、法律の類には一切興味がないという極端な性格をしていた

可能性があるようなのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

 

陳寿は、三国志の時代に片足を突っ込んだ時代の人で、彼の三国志に、

本当の意味での志が書かれていたなら、後世の歴史家は、三国志の時代を

理解するのに、かなり役立ったであろうと言われています。

そういう意味では、陳寿は、歴史家泣かせの一面を持つ人であったと

言う事が出来るでしょう。

 

「祭祀や法律や、音楽なんか書くのはメンドイや、誰かが書くだろ・・

大体、自分が知ってる事なんか、あえて記す気がしなーい」

 

案外、本音はそういう事だったのかも知れませんね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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