【センゴク】三方ヶ原の戦いがきっかけで将軍義昭が挙兵した?


はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

武田信玄(たけだしんげん)

戦国最強の騎馬隊を用いて各国に名を轟かせた戦国大名として有名な人物です。

彼は信長と同盟をしておりましたが突如同盟を破棄することなく信長の領土へ攻撃。

信長は同盟している信玄が突如自らの領土内の城を攻撃して占拠したことに激怒し、

彼を恨みます。

信玄は信長の激怒などお構えなく彼の同盟相手である徳川の領土を削り取っていき、

京都に武田の旗を立てるべく西へ向かって突き進んでいきます。

徳川家康は織田軍の救援軍が到着すると居城・浜松城(はままつじょう)に

籠城する作戦をとります。

しかし彼はあることがきっかけで信玄に激怒し、武田軍の跡を追っていくことになります。

そしてアノ人も武田軍に触発されてついに挙兵することを決めます。

 

関連記事:暴走しているオヤジを追放して当主に就任した武田晴信(たけだはるのぶ)

関連記事:山本勘助(やまもとかんすけ)は実在したの?今まで架空の人物だとされていた勘助の謎


浜松城をスルーされ家康激怒

 

信玄は徳川が領有する遠江(とおとうみ)の重要拠点・二俣城(ふたまたじょう)へ

猛攻をかけて陥落させます。

その後彼は遠江の豪族達へ「俺らの仲間になれよ」と呼びかけながら西へ向かって爆進。

徳川家康は二俣城を救援することができなかった事や

自軍の兵力が武田軍に比べて少なかったことなどを理由に浜松城へ篭城。

徳川家康は武田軍を迎え撃つ準備を行っていきます。

そんな中、織田軍の援軍が浜松城に到来。

しかし彼らを加えても徳川・織田連合軍は武田軍の半分程度の軍勢しかいませんでした。

武田信玄は浜松城付近に到着するとこの城をスルーして西へ向かって前進してきます。

徳川家康は信玄に自分が無視されたことに激怒し、

武田軍を追撃するために出撃することに決めます。

援軍としてやってきていた織田家の諸将は反対しますが、

家康は彼らの意見を聞くことなく浜松城を出撃することにします。


信玄の策は大成功

 

信玄は浜松城をあえてスルーして三方ヶ原の台地へ駐屯。

彼はなぜ浜松城をスルーして西へ向かったのでしょうか。

浜松城をスルーした理由は信玄の作戦でした。

彼は浜松城に駐屯している織田軍の援軍が到来していることを事前に把握しており、

浜松城をスルーすることによって家康を挑発。

そして信長の援軍を加えたことにより武田軍との兵力差が縮まった徳川家康は、

必ず追撃をかけて追いかけてくるであろうと読み切っていたため、

三方ヶ原の台地に駐屯して徳川軍を待ち受けます。

もし徳川軍が追撃しないで浜松城に篭城していたら信玄はどうしていたのでしょうか。

その場合、信玄は西へ向かって軍勢を進めて三河にある徳川家の所領を奪いながら、

尾張(おわり)へと向かっていたのではないのかと推測されます。

しかし徳川家康は信玄率いる武田軍を追撃する選択を行います。


フルボッコにされた徳川軍

 

徳川家康は三方ヶ原の台地に到着すると彼の前面に驚くべき光景が広がっておりました。

それは武田軍が陣形をしっかりと整えて徳川軍の方を向いて攻撃する準備を整えている状態でした。

家康は覚悟を決めて武田軍に決戦を挑みます。

三方ヶ原の戦いは午後四時頃からスタート。

武田軍は特殊部隊である投石部隊へ攻撃の合図を出して投石を開始。

徳川軍は投石部隊のせいで前方を見ることができず、

武田騎馬隊の攻撃を受けて混乱してしまいます。

徳川軍は必死に武田軍へ攻撃を加えますが、

彼らの攻撃によって次々と諸将の陣が崩れ去った事が原因で敗北。

 

 

家康は戦が始まった時刻が遅かったことと

家臣達が身代わりになって家康を逃がしたことがきっかけで、

浜松城へ逃亡することに成功します。

武田軍は徳川軍をある程度追撃した後、西へ向かって進んでいきます。


  

 

将軍様も信玄に連動して挙兵

 

武田信玄が徳川をフルボッコにして西へ向かっていることを知った

将軍・足利義昭(あしかがよしあき)も織田信長包囲網に参加し、

挙兵することにします。

彼はとりあえず明智光秀などの武将達へ自分に味方するように呼びかけた後、

幕府軍を武将に率いさせて砦を構築させます。

砦がある程度完成すると幕府軍をその砦に駐屯させて、

信長軍に対しての前線拠点として考えておりました。

 

戦国史ライター黒田レンの独り事

 

こうして信長包囲網は着実に信長を追い詰めていくことになります。

武田軍は三方ヶ原で徳川軍をフルボッコにした後、

西へ向かって移動を行い三河の野田城へ攻撃を行います。

将軍・義昭は浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景(あさくらよしかげ)などの諸大名へ

手紙を送って「信長を攻撃するべし」と要請。

こうして織田信長は少しづつ追い詰められていくことになるのですが、

信長の元に幸運が舞い込んできたことによってこの危機は消滅することになります。

 

参考文献 中公新書 信長と将軍義昭 谷口克広著など

 

 

はじめての三国志:全記事一覧はこちら

関連記事:楽しみながら戦国時代のエピソードを学べる歴史マンガ3選

関連記事:え?武田勝頼って武田家二代目代理なの!?

 


 

関連記事

  1. 項羽
  2. 豊臣秀吉 戦国時代
  3. 斎藤道三
  4. 豊臣秀吉 戦国時代2

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA



はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“ながら三国志音声コンテンツ"

“if三国志"

“つながるはじめての三国志"

“赤壁の戦い"

袁術祭り

春秋戦国時代

PAGE TOP