ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志の理解できない文化」のコーナーです。国が違うと文化も変わるのは当然の話です。
日本の文化は、中華の影響を大きく受けて発展していきましたから、我々日本人は西洋よりも中華の文化の方が抵抗なく理解できそうです。三国志の中にも盛んに登場する「忠」や「義」の観念は日本人も共感できますね。しかし中にはまったく理解できない文化も存在するのです。
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明清時代の風習
「三国志演義」を書いた羅貫中は明の初期の人ですし、三国志演義を改訂した毛綸、毛宗崗の親子はその後の清の時代の人です。ですから三国志演義にはその当時の思想が込められています。そのひとつが「理想の義や孝の追及」です。それ自体は日本人にも受け入れやすい話なのですが、その実践の仕方が問題でした。
明の時代(14世紀~17世紀)に「割股」という風習がややブームになります。これに関してやや説明しますが、食事中の人は読むのを後にしてください。かなりどぎつい内容です。
簡単にお話すると、自分の肉をそいで病気の親に食べさせるという風習で、当時は最高ランクの孝行とされています。嫁が自分の肉を病気になった姑に食べさせた、なんてことがあったようですね。迷信じみていますが、人肉の一部は他の獣肉よりも病気に効果があると信じられていたそうです。親への孝行の感情がこもっている分、その肉にはさらに治癒力があったようです。
正直、信じられないような話ですが、そんな文化も中華にはあったということです。さすがに今はないと思いますが、清の時代まで続いていたということですから、それって20世紀まで存在したということになるのかもしれません。
三国志演義の第19回に登場
これは三国志演義に登場するエピソードになります。吉川英治先生は著書の「三国志」の作者コメントで、このエピソードに対して、理解できない文化であり不快であると記しています。第19回、徐州を呂布に奪われ、曹操のもとに逃げる劉備の話です。
途中、劉安という猟師の家に宿を借ります。呂布の追撃の手もあったかもしれませんし、賊徒に襲撃されることもあったかもしれません。疲弊して逃避行を続けていた劉備のために、劉安は狼の肉を料理して食べさせます。劉備はそれをむさぼり食べました。もしかすると何日も食料を口にしていなかったのかもしれません。
劉備は満足して眠ってしまいます。翌朝、劉備は厨房で腕を切り取られた劉安の妻の姿を発見します。劉安の妻はすでに死んでいました。劉安は肉が何も用意できなかったので、妻を殺してその肉を料理していたのです。衝撃の事実です。スプラッタホラー映画を超える展開です。
皆さんが劉備の立場だったらどうします?恐ろしさと気持ち悪さで吐くでしょう?
劉安の精神状態も疑うと思います。しかし、このときの劉備は涙を流して感謝し、劉安を自分の部下にしようとするのです。理解に苦しむエピソードですね。
孝>忠
この行為は劉安の劉備への「忠」を示しているそうです。その忠に劉備も応えようと誘いますが、劉安は年老いた母を残してはいけないと断ります。当時は「忠」よりも、一族への「孝」が重んじられていましたから、劉安のこの返答も立派なものなのです。
妻を殺して他人に食べさせておいて、老母は放置してはおけないとはまた極端な話ですね。ちなみにこの話を後日劉備から聞いた曹操は、その忠と孝に感心して、金百両を届けさせたということです。つまり劉備だけが特殊なわけではなく、これが当時の共通した認識だったことになります。(あくまでも明と清の時代の共通認識だと思いますが)
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
一つだけ補足しますが、食べたくて食べたわけではありません。主食にしていたわけではありませんので勘違いしないでくださいね。忠と孝が試されるときの話です。意味わかんねー!っていう読者の皆さんばかりだと思いますが、1000年後の人類が現代を見た時に「うわ、動物の肉食べてる、残酷、信じられねー文化!」ってなっているかもしれませんよ。
皆さんはどうお考えですか。
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