張飛の死後、一族はどうなったの?蜀の滅亡の転換点に立ち会っていた一族たち

2016年12月9日


 

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五虎大将軍 張飛

 

三国志演義では、愛すべき豪勇無双な酒好き、単細胞、

おっちょこちょいキャラの張飛(ちょうひ)ですが、

史実では、ベテラン張郃(ちょうこう)を翻弄して破る程に策士な一面もありました。

しかし、部下に対して酷薄で愛情がない性格が災いし、

西暦221年、関羽の弔い合戦を準備する途中、配下の張達(ちょうたつ)、

范彊(はんきょう)によって寝首をかかれて死にました。

では、彼の死後、一族はどうなってゆくのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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張飛の後は次男の張紹が引き継ぐ

関興と張苞

 

さて、張飛の非業の最期の後を継いだのは長男の張苞(ちょうほう)ではなく

意外にも次男の張紹(ちょうしょう)でした。

張苞は三国志演義では、関羽(かんう)の息子の関興(かんこう)と

義兄弟になり活躍しますが、あれはフィクションであって、史実の張苞は

病弱で父より先に、恐らく十代で死んでいるようです。

 

張紹は、張飛の次男で、張苞が早く死んだ事で家督を継ぐ事になります。

官位は侍中、尚書僕射まで昇進していますが、兵を率いて前線で戦った

というような記述はありません。

 

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張紹は非力な文官だったのか?

関羽 関索

 

関羽の後を継いだ、関興にしても、この張紹にしても初代が武勇一筋で

成りあがってきたのと対照的に地位は高くても文官イメージが強いです。

これは、益州に拠点を得た事で劉備(りゅうび)や重臣の一族も世襲化が始まり、

次第に前線で戦い、手柄を立てる立場から離れてきたとも言えるでしょう。

 

しかし、張紹が戦線に耐えられないほどひ弱かと言うと、

それは違うかも知れません。

何より、張氏は後主、劉禅に二人の皇后を送った外戚なので、

万が一を恐れて、前線に送らなかった可能性もあるからです。

 

張飛の子は蜀の滅亡に立ち会っていた

ラストサムライ羅憲

 

この張紹は長生きします、そして西暦263年、魏の鄧乂(とうがい)

成都に迫ると劉禅は、譙周(しょうしゅう)の提言を容れて降伏を決意し、

光録大夫、譙周(しょうしゅう)、駙馬都尉、鄧良(とうりょう)

そして、侍中の張紹に降伏文書を持たせて雒城で鄧乂と会見させます。

 

鄧乂は劉禅の降伏を受けいれて、ここに蜀漢は滅亡するのです。

そう、張飛の息子は、蜀の滅亡という時代の転換点に立ち会っていました。

蜀漢の建国に大功のあった張飛と蜀漢滅亡の幕引きをした張紹、

これもドラマチックと言えば、ドラマチックな話です。

 

鍾会

 

そして、幸運な事に張紹は、その後に起きた鍾会(しょうかい)の反乱に

巻きこまれる事なく尚書令、樊建(はんけん)、秘書令、郤正(こくせい)、

殿中督 張通(ちょうつう)、そして譙周は列侯に封じられ、

張紹も天寿を全うしたようです。

 

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戦って戦死した張苞の子、張遵

 

文官イメージの張飛の子孫で、唯一、祖父の面影があるのが張遵(ちょうじゅん)です。

彼は張苞の子ですが、恐らく張苞の死んだ頃は幼子だったのでしょう。

家督は叔父の張紹が継いでいました。

 

彼も、蜀漢王朝の外戚として引き立てを受けて、尚書まで昇りますが、

そのまま、蜀漢の滅亡を傍観するのを潔しとはしませんでした。

魏の鄧乂が成都に迫った時、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の息子の

諸葛瞻(しょかつ・せん)と同行し、綿竹関で戦って戦死しました。

 

張飛の一族では、一番戦闘的で張飛に似ていたと言えるでしょう。

 

夏侯家は美男・美女の家系、張飛の娘達

夏侯覇の妻は誰?

 

張飛の妻は、夏侯覇(かこうは)の従妹にあたる女性で、

西暦200年頃に、山に薪を取りに来た所を張飛に見初められ、

13~14歳程で略奪婚されました。

 

ただ、張飛は身分コンプレックスが強く、士大夫を畏れたので、

略奪婚とはいえ、名族と思われた彼女が粗略に扱われる事はなく、

無事に娘を二人産んでいます。

 

夏侯惇

 

夏侯一族は美男、美女が多かったようで、あの無骨なイメージがある

夏侯惇(かこうとん)も隻眼になってからは、鏡を見ては醜い傷跡に癇癪を起こし

鏡を地面に叩きつけたという記述がある事から、容姿に相当な自信が

あったのではと推測できます。

 

そうなると、張飛の娘二人も母の血筋で美女だったとも

考えられるのです。

 

姉妹して劉禅の妃になり張氏は外戚となる

後宮 美女 階級

 

張飛の姉は、劉禅が即位するとすぐに皇后に立てられますが、

西暦237年に死去し、敬哀皇后と諡(おくりな)されます。

すると、劉禅は、妹の方を直ぐに召しだして貴人の位を授け、

翌年には皇后に立てて張皇后とされます。

 

これは儒教の倫理では大変なタブーですが、

しかし、劉禅がこれを強行した所を見ると、或いは、

妹と姉はそれほど年が離れてなく姿も似ていたのかも知れません。

こちらの妹の張皇后は、劉禅との仲も睦まじく、蜀の滅亡後は

夫と共に洛陽に移り住んでいます。

 

関羽(かんう)の一族と比べると張飛の一族は戦死者を出しはしたものの、

おおむね平穏無事に亡国を乗り切ったと言えるでしょう。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

張飛の娘達は、母から母方の一族の話を聞いていたようです。

族伯父にあたる夏侯淵(かこうえん)が定軍山で黄忠(こうちゅう)に討ち取られると、

彼女は、劉禅に夏侯淵を埋葬してくれるように頼んでいます。

 

今は敵同士になったとはいえ、母の族伯父にあたる人物の遺骸を

野ざらしにするのはしのびなかったのでしょう。

彼女の優しい性格がうかがえます。

 

後に、彼女の族弟にあたる夏侯覇は司馬一族による誅殺を恐れ、

西暦249年、蜀に降りますが、或いは、夏侯淵を丁寧に埋葬した劉禅の態度から

自分が降っても殺される事はないと思ったのかもしれません。

 

気の弱い劉禅は夏侯覇が、自分を内心では恨んでいると思ったのか、

「あなたの父は戦難で死んだのであって、私の父が手にかけたのではない」

と釈明し、自分の皇子を指差して、この子達は夏侯氏の外甥であると言い、

夏侯覇に沢山の贈物をして機嫌を取っています。

 

劉禅の慌てぶりを見る限り、夏侯覇の厚遇には、

「あなたの族姉を奪って(私がやったのではないが)、あい済まぬ、

あなたの父を殺してしまい、(私がやってないが)あい済まぬ」

 

そういう贖罪の意識があったのではないか?とkawasuoには思えます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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