後漢末期~三国終焉へ至るまでに英雄と呼ばれた人物や大きな戦が幾度も行われてきました。そんな戦いに明け暮れていた時期ですが、科学面や発明品においても非常に発達した時代でもありました。
今回は三国志の発明品や科学面の面から三国志の時代に興味を持ってもらおうと思います。
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紙を普及させた立役者
後漢時代初期、一人の宦官が紙を普及させることに大いに貢献しております。その人物の名は蔡倫(さいりん)と言います。彼はボロ布や麻などを活用して紙を作製し、当時の後漢皇帝であった明帝(めいてい)に献上しております。
彼の発明品である紙ですが・・・・実は彼の発明ではありません。前漢時代にはすでに紙は発明されていたのですが、あまりに高すぎてあまり使用されることはありませんでした。しかし蔡倫が安価に紙を製造できるように改良したことによって、一気に紙が普及されるようになり後漢王朝から優れた詩や文章などは、紙に書かれるようになっていきます。
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地震計測器を発明した天文学者
後漢中期にある科学者が地震計測器を発明。彼は自らが発明した地震計測器を「地動儀(ちどうぎ)」と命名。
この地動儀を作成した人物の名前を張衡(ちょうこう)と言います。地動儀はただの地震計測器ではなく、地震が発生した場所を測定することのできる優れたものでした。また彼は天文学者としても知られており、世界初の天体観測系である渾天儀(こんてんぎ)を発明した人物として知られております。
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司馬昭に仕えた地図製作者
江戸時代、日本地図を作った偉大な人物がおりました。その名を伊能忠敬(いのうただたか)と言い、彼は全国16年間も歩き回って精巧な日本全国地図を完成させます。
さて三国志の時代には伊能忠敬のように地図を作った人物はいないのでしょうか。もちろんいます。その人物は司馬昭(しばしょう)に仕えて活躍した裴秀(はいしゅう)という人物です。彼は同時代において精巧な地図である「禹貢地域図(うこうちいきず)」と言われる地図などを作成しております。
袁紹軍を恐れさせた発石車
袁紹VS曹操の激戦である官渡(かんと)の戦い。この戦いの時に袁紹軍は土山を築いてその上に櫓(やぐら)を築いて、官渡城へ弓矢を放って攻撃しておりました。
曹操はこの攻撃を防ぐために巨岩を放り投げる発石車(はっせきしゃ=霹靂車(へきれきしゃ))なる兵器を製造して袁紹軍の攻撃に対抗します。この発石車は袁紹軍の櫓めがけて巨岩を投石して攻撃を仕掛けて破壊。音や櫓に当たった時の破壊力を目の当たりにした袁紹軍は、曹操軍から飛んでくる巨岩に恐れをなしていたそうです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
他にも蜀の丞相であった諸葛孔明は連発で弓矢を放つことができ、あまり技術を必要としないで敵軍に矢を当てることのできる連弩(れんど)や
兵糧の輸送効率アップを目的とした木牛(もくぎゅう)・流馬(りゅうば)などを考案しております。また魏の馬均(ばきん)は特定の方向を発見することのできる指南車(しなんしゃ)の復元や農業で活躍した足踏み式水車を作り出しております。
また娯楽物として曹叡(そうえい)に機械人形を製作して献上しております。このように三国志は戦や名将達もものすごいことを平然とやっており、これらを楽しむのも三国志の楽しみ方としては非常に面白いです。
しかし文化面や発明品、科学面から見るとより三国時代の人々が、どれくらいすごいのかを知ることができ、楽しさも倍増するのではないのでしょうか。
参考文献 西東社 オールカラーで分かりやすい 三国志 渡辺清一著など
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