ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志もしもボックス」のコーナーです。
劉備の益州・劉璋領侵略に際して主力になったのが、新参者の黄忠(こうちゅう)と魏延(ぎえん)
そして今回の話の主役である龐統です。
龐統は直前に軍師中郎将に就いています。
呉の魯粛(ろしゅく)の推薦があったといわれています。
それまでは重く用いられていません。
つまり活躍の場がほとんどなかったわけです。
しかし劉備軍の軍師として諸葛亮孔明の「伏龍」と並び「龐雛」と称される龐統は、
益州侵攻でようやく功績をあげます。遅すぎる活躍と早すぎる死。
はたして龐統は本当に諸葛亮孔明に匹敵するほどの軍師だったのでしょうか。
今回は龐統が益州侵攻時に戦死しなければ蜀はどうなったのか考察してみましょう。
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諸葛亮孔明との違い
活躍の時期の長さが大きく異なる諸葛亮孔明と龐統ですが、
他にも対照的な相違が見られます。
イメージの問題ですが、諸葛亮孔明はいつも涼し気なイケメン。
対して龐統は身なりが冴えないという記述があり男前ではなさそうです。
交渉面でも呉の老練な重臣たちを言い負かした諸葛亮孔明に対し、
龐統は口下手だったそうです。
みんなの人気者と周囲に煙たがられる存在というように実に対照的な二人です。
そして特に重要になるのが軍師としてのアドバイスの内容になります。
儒教思想にとって諸葛亮孔明は義に殉じた理想の宰相です。
劉備もやはり漢再興の義に生きた理想の君主。
しかしここで矛盾が起きました。
諸葛亮孔明は天下三分の計を提案し、劉備は同族の領土を侵略するからです。
これは劉備たちの不義として長らく批判され続けています。
ですから三国志演義にはその批判の矛先をかわすカラクリがあるのです。
龐統の役割
宋代以降の儒教思想の王道である朱子学、
南宋の朱子は益州侵略は諸葛亮孔明の提案ではなかったと位置づけました。
三国志演義では劉備を悪者にするわけにはいかないので、
事あるごとに劉備は益州侵略を渋るという設定になっています。
そしてその背中を押すのが軍師として従事していた龐統です。
龐統は、張魯討伐の援軍として訪れた劉備を出迎える劉璋を捕らえるように勧めます。
しかし大義名分を重んじる劉備はそれを断るのです。
仁徳の君主であることをアピールするとともに、
これまでの劉備軍にはいなかった冷酷な判断ができる軍師として龐統は注目されることになります。
龐統は翌年にも劉備に助言し、
「ただちに成都を襲うのが上策、緊急事態と偽って一度荊州に帰還するふりをして
まず二人の将軍を暗殺し、
成都を目指すのが中策、このまま荊州に戻って出直すのが下策、葭萌に残るのは破滅」と、
益州侵略を急かします。こうして劉備はようやく重い腰をあげるのです。
正史で描かれている劉備には益州侵略のためらいなど微塵も感じさせません。
はっきりいって、三国志演義での龐統の役割は、劉備や諸葛亮孔明を惹きたてるための汚れ役です。
劉備の同族への侵略という不義は、
龐統や法正らが推し進めてきたこととして劉備を正当化しているわけです。
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死ななければならない運命
漢再興の義を掲げる蜀に不義を遂行する人材は不要です。
龐統は蜀建国前に死んでもらわなければならなかったことになります。
もともとの主君を裏切った張松や法正にもです。
彼らは能力こそ高かったでしょうが、
蜀のインテグリティ(存在理由)を否定する存在だったからです。
もし龐統が益州侵攻の際に戦死していなければ、
後に荊州に戻り関羽の片腕として荊州の防衛と魏への侵攻に一役買うことになったでしょう。
しかし義に厚い関羽が龐統にどう対したかを考えると、
別件逮捕で処刑した可能性もあるのではないかと思います。
龐統は劉備の汚い部分をすべて背負って死ななければならない運命だからです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
龐統が戦死した場所とされる落鳳坡ですが、
三国志演義の脚色です。架空の地名です。
死の直前に劉備から馬を借りていますが、
それが凶馬・的盧だったという噂もあります。
人に貸して凶事が起これば自分の身は守れると助言されていた劉備の愛馬です。
私はなぜかそんな龐統が好きですね。
皆さんはどうお考えですか。
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