曹操(そうそう)はオヤジを陶謙(とうけん)の部下に殺害された事に激怒し、
徐州へ攻撃を仕掛けます。
劉備は陶謙からの救援要請を受けて徐州(じょしゅう)に入り曹操軍を撃退するために奮闘。
曹操は本拠地である兗州(えんしゅう)が、
陳宮や曹操の親友である張邈(ちょうばく)が、
呂布を向かい入れて謀反を起こしたことがきっかけで徐州から撤退することになります。
陶謙は曹操が撤退すると病にかかってしまい日に日に弱っていきます。
彼は自らの死期を悟ると劉備に徐州を譲り渡したいとお願いします。
劉備は陶謙のお願いを断り続けていましたが、
ある二人の人物からの説得により徐州を貰う決意をします。
今回は劉備が徐州を譲り受ける事になったきっかけを作ったある人物の進言を
ご紹介したいと思います。
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陶謙のお願い
陶謙は曹操が徐州から撤退すると病にかかってしまい自らの命が短いことを悟ります。
彼は自らの息子達に徐州を譲ってしまえば、
他の群雄達に奪われてしまう可能性があると考えて劉備に徐州を譲る決意をします。
陶謙は劉備へ「徐州を君に譲りたいと思うのだが受けてくれないか。」と提案。
しかし劉備は彼のお願いを受けることなく幾度も拒否し、
徐州を貰い受けようとはしませんでした。
陶謙は劉備へお願いを承諾させることなく亡くなってしまいます。
麋竺が劉備を迎えに行くも・・・・
陶謙の配下の文官である麋竺(びじく)は劉備を徐州の主にするため、
陶謙が亡くなると民衆を連れて劉備に徐州の主についてくれとお願いします。
しかし劉備は彼のお願いも聞き入れることなく断ってしまいます。
麋竺のお願いが断られたことを知った元陶謙の部下だったある人物が、
劉備の元へやってきます。
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陳登(ちんとう)の説得
陶謙の元部下であった陳登(ちんとう)は劉備と会見すると早速彼に進言を行います。
陳登は劉備へ「後漢王朝は衰えきって中華を統治することができない状況です。
そのため各地の群雄達は独立して覇者となるべく日夜戦いを続けており、
劉備殿が今功績を残して天下に覇を唱える絶好の機会と言っていいでしょう。
また徐州の民衆はあなた様に政治をとって欲しいと考えており、
先日民衆ともに麋竺がやってきたではありませんか。
なぜあなた様は徐州の主になろうと思わないのですか。」と徐州の主になるように要請。
しかし劉備は陳登へ「寿春(じゅしゅん)に袁術殿がいる。
このお猿さんははちみつ大好きだが、何人もの三公を出している名家である。
彼に徐州を譲ったほうがいいのではないのか。」と反論。
陳登はこの発言に対して劉備へ
「歴史に名を残す最大のチャンスが来ているのにそれを受けないというのであれば、
私は今後あなた様に付き従うことしないでしょう。」と
言われてしまうのでした。
陳登が劉備に進言をした数日後、あの有名人の子孫からも進言をされることになります。
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孔融(こうゆう)からの進言
劉備はその後孔子の子孫である孔融(こうゆう)から手紙をもらいます。
この手紙の内容は「袁術は名家と言ってもはちみつ好きなおっさんで、
やつに気を使う必要ないでしょう。
それよりもこの最大のチャンスを逃せば、後で悔やんでも遅いですよ」と提案を受けます。
劉備は陳登・孔融の提案を受けてやっと徐州の主になることを決意。
こうして彼は陶謙の跡を引き継いで徐州の主として君臨することになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備がもし陳登や孔融らの進言を受けなければ、
徐州は袁術の物になっていたかもしれません。
もし袁術が徐州を領有した場合どうなっていたのでしょうか。
袁紹と並ぶ中華最大の勢力として君臨することになり、
曹操は袁紹の元で働き続けることになり、
孫策は江東で独立することは難しかったのではないのでしょうか。
さらに呂布は兗州で敗北した後流浪を続けることになっていたでしょう。
このように考えると劉備が徐州を譲り受けた進言を行ったふたりが、
天下を動かしたと考えられるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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