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曹植は軟弱ではなかった?皇帝の弟の悲しくも華麗な生涯

2017年7月1日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

唐の李白、杜甫以前を代表し後世から詩聖と謳われた曹植子建(そうしょく・しけん)

彼の後半生は、兄、曹丕(そうひ)と帝位を争ったばかりに灰色に塗りつぶされ

41年という短い人生を失意の中で過ごし、酒の害に倒れてしまいます。

しかし、一見、軟弱で弱々しいポエマーに見える曹植は、実は勇気に満ちて、

一定の批判精神を常に持っていた反骨の人でもありました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後継者、曹昂が戦死した事で曹丕・曹植の運命が変わる

 

西暦192年、曹植が生まれた頃、母の卞(べん)氏は曹操の側室に過ぎませんでした。

正室は丁(てい)氏であり、彼女の継子である曹昂(そうこう)

曹操の後継者に一番近かったのです。

 

しかし、西暦197年、曹操は自らの不始末で後継者、曹昂を戦死させます。

その事を悲しんだ丁夫人は激怒して実家に戻り二度と帰ってきませんでした。

 

やむなく、曹操は、第二夫人だった卞氏を正妻に迎えて、

自身の多くの夫人達を仕切らせる事になります。

 

こうして、後継者とは縁が無かった曹丕と曹植は

俄かに曹家の後継者として浮上してくる事になります。

 

詩を何十万言と暗唱した神童 曹植は曹操に気に入られる

 

兄の曹丕も、文武いずれにも優れた天才でしたが、

ただ一つ、弟の曹植に詩の才能では敵いませんでした。

曹植は、幼くして何十万言という詩を暗唱できた天才でしたので、

曹操は自分に似て雄大な詩の才能を持つ曹植を愛しました。

 

ただ、曹丕を弁護して言うなら、曹操は曹丕を嫌ったわけではなく

普通に行けば、自分を継ぐだろう曹丕には、他の兄弟以上に

厳しく接しようという感情が湧いたのだと思います。

 

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溺愛に溺れ、やってはいけないタブーを侵す曹植

 

偉大な父に特別に目をかけられている・・

この事は元々、奔放な曹植の性格に、さらに拍車をかけてしまいます。

ある日、泥酔した曹植は、天子にしか通過を許されない専用通路を、

馬車で爆走してしまい、大騒動になります。

 

ところが曹植は、あまり事態を深刻に受け止めてはいませんでした。

きっと父が許してくれると甘く考えていたのです。

しかし、この暴挙に、もっとも渋顔をし対応に苦慮したのは曹操でした。

 

(ただでさえ権勢飛ぶ鳥を落す勢いの曹家の人間が、

皇帝を軽んじるような事をしては、天下の人々に野心を疑われる、、

こんな事も分からぬ植を後継者とする事は出来ん)

 

事件から間もなく、西暦211年曹操は曹丕を副丞相として、

自分の後継者とする事を暗に内外に示しました。

常に自重して行動に気を配る曹丕と、自由奔放な曹植の命運は、

ここで大きく別れてしまうのです。

 

曹丕派と曹植派が曹操亡き後の地位を争い 曹丕が勝利

 

やがて、曹操が高齢化してくると、曹丕と曹植に、

それぞれ取り巻きがついて激しい後継者争いが発生します。

元々は、仲が良かった曹丕と曹植も、お互いの取り巻きから、

さんざんに悪口を吹き込まれて関係が悪化していきました。

 

西暦217年、曹操は正式に曹丕を後継者と決定し、

ここに曹植とその取り巻きの運命は確定します。

曹操の死後、曹丕は後漢最期の皇帝献帝(けんてい)に禅譲させて

魏の文帝として即位すると同時に、曹植の取り巻きを

一人ずつ殺していきました。

 

各地を転々とさせられ、失意の最期を迎える・・

 

曹植は殺される事は免れましたが、常に反逆者としてマークされ、

西暦221年には、安郷(あんごう)侯に転封され、

同年には鄄城(しんじょう)侯に再転封。

 

223年にはさらに雍丘(ようきゅう)、以後、浚儀(しゅんぎ)王、

雍丘(ようきゅう)王、東阿(とうあ)王、陳(ちん)王と数年ごとに

曹植が死去するまで各地を転々とさせられます。

 

これは曹植が封地に地盤を築く事を阻止する計略でした。

 

西暦226年に兄の曹丕が死去すると、甥の曹叡(そうえい)が即位します。

それを、因縁を解消できるチャンスと考えた曹植は、

「王族がもっと政治に関与できるようにしてほしい」と手紙を出します。

 

ところが曹丕から曹植の危険性を言い含められていた曹叡は、

それらの手紙を黙殺してしまいました。

甥となら和解できると一縷の希望を持っていた曹植は打ち砕かれます。

 

さらに、西暦230年には最期まで曹植を庇ってくれた母、卞氏が死去。

いよいよ絶望した曹植は酒を浴びるように飲んで体を壊し、

232年、41歳でひっそりと亡くなりました。

 

こいつらには愛国心が無い!洛陽の軽薄青年貴族を批難する曹植

 

そんな曹植は若い頃に、洛陽で奔放に遊んでいた軽薄な青年貴族を

批難するような詩を書いています、それが、名都編という漢詩です。

 

意訳

 

大都会の女達は、色めきセクシーだ、ここ洛陽には青年が出没する

千金に値する宝剣を下げて、着飾った衣服を身にまとい、

時には、東の郊外で闘鶏をやり、また時には、板で囲われた並木道で

競馬を楽しんでいる。

今日も、あちこちで遊び歩いている間に、二匹の兎を見つけた。

弓を手に取り、かぶら矢を腰の帯にはさんで兎を遠く南の山まで追い上げる。

 

弓の巧者は、左で弓を引いて、右で放ち、

一本の矢で二匹の兎を射るが、それでも、まだ名人ではないと言う。

青年は、さらに上空の鳶を射落して、庶民から拍手喝さいを浴びる。

こうして、一通り狩りが済むと、平楽殿で宴会が開かれる。

ここで出される酒は一斗で一万銭もする美酒だと言う・・

 

鯉をなますの刺身にし、子持ちのエビを吸い物にする。

熊の手を炙り焼きにして食べ、友達同士で名前を呼び合い、

気勢を上げたり口笛を鳴らしたり、一同、長椅子に並んで座り

長く引いた、竹のむしろいっぱいに集まった。

 

食事がすんだら、ボール遊び、そして、地面に立てた靴を

もう一つの靴を投げて当てるスポーツを楽しむ

すべての技を駆使して楽しまれるスポーツは見物だ。

真昼の太陽が南西に傾くと、青年達は疲れ果てて、

ぞろぞろと街中へと散って行く。

 

こうして、また翌朝には、彼等の遊び場に集うのだ。

 

これは、曹家や夏侯家のボンボンの放蕩を皮肉っている

 

この詩は建安年間に書かれているようですが、曹植の年齢から考えて

西暦210年頃ではないかと思われます。

そして、この詩に出てくる毎日、狩りと遊興にふける軽薄な青年貴族は

宗室である曹家や夏侯家のボンボン達の日常なのでしょう。

 

赤壁後には、曹操に華北で叛く勢力はなくなり、曹家や夏侯家の御曹司が貴族化

このようなお金のかかる遊びを楽しむのも難しくはなくなり、

剛健で質素を好んだ曹植は、それが気に入らなかったのかも知れません。

 

このように曹植は常に一定の批判精神を持っていたのです。

 

本当は詩よりも政治家・軍人として名を残したかった曹植

 

このような悲劇的な境遇から薄幸の天才詩人として取られる曹植ですが、

本人は余り詩を重んじてはいませんでした。

 

 

曹植は軟弱ではなかった?皇帝の弟の悲しくも華麗な生涯

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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