蜀のスーパー丞相・諸葛孔明(しょかつこうめい)。
劉備が亡くなった後、益州(えきしゅう)南部で異民族達が反乱を起こします。
孔明は異民族の大将として君臨していた孟獲(もうかく)を討伐するため出陣し、
七回孟獲を捕虜にして解放したことがきっかけで孟獲は降伏することに。
こうして南蛮は無事に制圧することに成功するのですが、
実は孔明の南蛮征伐は南蛮を制圧することが目的ではなく、
資金源をgetするための交易路(南シルクロード)を手に入れるためだったのです。
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この記事の目次
南蛮ってどんな所なの!?
孔明の南蛮征伐の目的を説明する前に南蛮が一体どんな所なのか、
どうして反乱を起こすことになったのかをご紹介したいと思います。
そもそも南蛮には白族(はくぞく)や苗族(びょうぞく)、
羌族(きょうぞく)などの異民族が住んでおり、
百数十の部族が南蛮地方に割拠して国家を形成。
これら部族国家をまとめて後漢時代には西南夷(せいなんい)と呼ばれておりました。
前漢時代よりも前から西南夷と漢人達は交易によって密接な関係で、
益州に住んでいた漢人達は西南夷の部族国家へ蜀の名産品である絹、香辛料、
鉄などを西南夷の部族達へ売っておりました。
西南夷の国家は漢人達へ金、銀、象牙などを売っており、
交易が盛んに行われておりました。
益州と西南夷はこのように密接な関係であり、
昔から南蛮には金、銀、象牙などの特産品は多く存在している場所でした。
後漢後期に益州の主として君臨していた劉焉(りゅうえん)や劉璋(りゅうしょう)親子は、
南蛮地方に影響力を及ぼすほどの力を持っておらず、
西南夷の異民族達へ干渉することがなかったため、
西南夷の部族国家は勝手気ままに生活をしておりました。
劉備時代の西南夷の状況
劉備が劉璋を追い出して益州の統治を行うとスーパー丞相・孔明は、
南蛮地方に割拠している西南夷の部族国家が有している豊富な資金源に目をつけます。
諸葛亮孔明は異民族達の部族国家へ漢人の有力者達や行政官を派遣して、
西南夷を統治することにします。
こうして劉備時代は劉璋が統治していた時代と違い、
強力な政権であったこともあり異民族達は渋々劉備政権に従うことにします。
劉備が生きている間西南夷の部族国家は反乱を起さずおとなしくしておりました。
だが劉備が亡くなると西南夷の部族達は結束して反乱を起してしまうのです。
一体どうしてなのでしょうか。
【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記】
士燮が反乱を手引きする
孫呉の西南に位置する土地・交州を中心に統治していた士燮(ししょう)。
孫権は「劉備が亡くなって動揺している西南夷の部族国家を扇動するように」と
士燮へ命令を下します。
士燮は自らが統治していた土地を守るため、
南蛮地方の有力者である朱褒(しゅほう)や高定(こうてい)らへ
「蜀は劉備が死んで動揺している。
もし蜀に反乱を起こすのであれば、孫呉が援護して褒美もたっぷりとくれるらしいぞ」と
朱褒と高定らを唆します。
朱褒や高定達は士燮の誘いに乗って蜀に反乱を起こす決意を固め、
孔明から派遣されてきた文官・張裔(ちょうえい)を捕虜にして孫呉へ送ってしまいます。
こうして士燮の策謀は見事に成功し、
益州南部に割拠していた西南夷は次々と蜀の政権に対して、
反乱を起こしていくことになります。
西南夷討伐へ向かう
孔明は西南夷が反乱を起こしたことを知ると会議で
「西南夷を討伐したいんだけどいいかな」と進言します。
しかし司塩校尉(しえんこうい)の王連が反対意見を述べ、
孔明を西南夷討伐に向かわせようとしませんでした。
孔明は王連からの反対意見を採用して三年の間は西南夷の反乱に対して、
文官を派遣して南蛮の反乱軍へ武力を用いず説得することに心を砕くことにします。
だが西南夷で反乱を起こした朱褒達は孔明が派遣した文官の説得に耳を貸さず、
次々と益州南部の町や城へ攻撃を仕掛けていくのでした。
こうして三年の間は手を出さなかった孔明ですが孫呉に敗北した傷も癒え、
蜀の経済力もある程度回復したことがきっかけで西南夷の反乱を鎮圧するため、
南蛮制圧を開始することにします。
七たび捕らえて制圧完了
諸葛孔明率いる南蛮制圧軍は次々と反乱拠点を陥落。
反乱軍の首領で朱褒は仲間割れによって殺害され、
朱褒と一緒に反乱を起こしていた高定も
諸葛孔明の南蛮征伐軍に討ち取られてしまいます。
反乱軍のトップが居なくなった西南夷の軍勢は孟獲(もうかく)をトップに推戴し、
諸葛孔明の軍勢と戦いを継続していきます。
だが孟獲軍も孔明の軍勢に勝利することができずに七たびも捕虜になってしまいます。
そして七回目に捕虜になった時孔明に敵わないことを悟って降伏。
こうして南蛮征伐は完了することになります。
しかし孔明は孟獲をgetするためだけに南蛮のような辺鄙な土地へ
きたわけではありません。
では一体何を目的として孔明は南蛮のような辺鄙な土地へ向かったのでしょうか。
南蛮征伐の目的その1:孔明のレベルアップと孫呉にプレッシャーをかけるため
孔明は劉備の軍師として仲間に加わりますが、
劉備が亡くなるまでほとんど軍事的な経験値を持っていませんでした。
諸葛孔明が北伐戦以外での軍事的な経験値といえば、
漢中制圧戦の時に参加しただけではないのでしょうか。
そのため正史三国志の作者である陳寿(ちんじゅ)も
「孔明は内政面など多くの優れたところを持った宰相だったが、
唯一の欠点は軍事的才能が乏しかった所にある」と述べております。
そのため孔明は軍事的経験値を稼いでレベルアップするため南蛮制圧に向かうのです。
そして南蛮制圧で軍事的な経験値を稼いでレベルアップを果たした孔明は、
陳震を孫呉の使者として向かわせ西南夷の反乱を画策した孫権へ
「お前!!二度と西南夷を唆すようなことをするな!!」とプレッシャーをかけたそうです。
上記が孔明の南蛮征伐の目的として挙げる事が出来るでしょう。
しかしこれらは従来から言われている説であり、
孔明の南蛮征伐の真の目的は上記の他にありました。
南蛮征伐の真の目的は交易路(南シルクロード)をgetするため!!
孔明の南蛮征伐の真の目的は北伐を行う際に必要となる資金源確保のための
交易路(南シルクロード)のgetでした。
南蛮を完全に手中に収めることによって、
南蛮からもたらされる特産品の数々だけでは北伐の資金源として、
十分にまかなうことはできませんでした。
劉備が益州を制圧してから亡くなるまで漢中制圧戦や夷陵(いりょう)の戦いなど
多くの戦いが行われたため事と関羽が亡くなって荊州が失われたため、
蜀の経済状況はかなり切迫しておりました。
孔明は南蛮を制圧して特産品を手に入れることができましたが、
華陽国志(かようこくし)に収録されている孔明の言葉によると
「南蛮制圧で手に入った金や銀だけでは蜀の経済状況を全然補強することができない」と
悲痛な言葉を残しております。
そのため孔明は南蛮を完全に手中に収めてから南方のベトナムやミャンマーなどの国と
交易を行うことで北伐の資金源をしっかりと確保しようとする狙いが、
あったのではないのでしょうか。
その証左として劉備が三顧の礼をもって孔明を迎えた時アドバイスした言葉が収録されている
「草廬対(そうろたい)」と呼ばれる書物にこのような記載があります。
孔明は劉備へ「西方の異民族達を懐かせて、
南方の西南夷に割拠している諸異民族達を制圧する」と述べております。
ついでに「西方の異民族達」は涼州に割拠している羌族や匈奴を指しており、
彼らを懐かせることによって西域諸国との交易の道である「シルクロード」を手に入れ、
益州や南蛮以南の交易路(南シルクロード)からもたらされる物産と交換して、
軍資金に充てることが孔明の目的であったと推測することができるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
孔明の南蛮制圧は真の目的を達成することができず終わってしまいます。
南蛮以南に割拠していた異民族達を完全に制圧することはできず、
南方の国々と国を挙げて交易することはできませんでした。
しかしこれらの記述は正史三国志に記載されていないため、
本当かどうかわかりません。
だが諸葛孔明の南蛮征伐の真の目的が、
北伐を支えるための資金源getのための交易路確保の可能性も
上記のように考えればあり得るのではないのでしょうか。
参考文献 新人物文庫 もう一つの三国志異民族との戦い 坂口和澄著など
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