三曹七子にも並ぶ女流詩人、蔡文姫の数奇な人生

2015年2月17日


 

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さいぶんき パずドラ風

建安文化を代表する文人として「三曹七子」の存在がありますが女性の活躍が少ないこの時代の中で、きらりと輝く女流詩人がいます。名前は蔡琰(さいえん)字は文姫(ぶんき)ゲームなどでは蔡文姫と書かれることが多いでしょうか?

 

後漢の政治家であり儒家であり書家の蔡邕(さいよう)の娘です。彼女は優れた作品、「悲憤詩」や「胡笳(こか)十八拍」という作品を残しています。また、曹操の命令で、失われた父蔡邕の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかったというほどの才能の持ち主です。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蔡琰の数奇な人生

 

蔡琰の生年没年はともに不明です。兗州陳留郡の出身で、初めに衛仲道の妻となりますが、早くに夫を亡くして未亡人となり、実家に戻ります。運命が変わったのは、195年のことです。董卓の残党による乱が起きたとき、蔡琰はなんと、匈奴の騎馬兵に拉致されてしまうのです。連れていかれた先で、南匈奴の左賢、劉豹に気に入られ、側室にされてしまいます。左賢王(さけんおう)というのは匈奴王の左腕ともいうべき高い位の称号です。劉豹との間には2児をもうけました。

 

207年に再び蔡琰に転機が訪れます。人材マニアの曹操が、蔡邕に跡継ぎがいないことを惜しみ、「そうだ娘がいたじゃないか」と思い立ち、匈奴と交渉して、蔡琰を帰国させます。蔡琰はこのとき、劉豹との間にもうけた子供を、匈奴においてくることになり、別離の悲しみを歌った詩を作ります。その後、曹操のとりなしで、同郷出身の董祀と結婚します。のちに、董祀が罪を犯した際、蔡琰は曹操にかけあい、夫の死刑をやめさせたそうです。

 



三国時代の匈奴の暮らし

現実主義曹操

後漢時代にはまだ強い立場であった匈奴も、三国時代には、部族組織を残したまま、魏に間接支配を受けていました。曹操は単于(ぜんう)つまり、匈奴王を鄴(ぎょう)に抑留し、実権を奪った上で、匈奴の部族を細かく分けてそれぞれに漢人のお目付け役を配置しました。かつて北方で遊牧生活をしていた匈奴も、こうしてだんだんと土着の農耕民族へ変わっていったのです。

 

 

 

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東方明珠

東方明珠

中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。当時はゲームセンターに通いつめました!まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。

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